思いたって、「宝篋印陀羅尼法(ほうきょういん だらにほう)」をおがんで、私の二人の恩師をご供養させていただいた。
いつも施餓鬼供養のときにご供養しているのだが、ことに丁寧をこころがけた。
兄弟子から、「師匠というのは親以上の存在である」と教えられてきた。弘法大師も「師資の道は父子の道より相親し」と説いている。
とは言うものの、さっぱりご恩返しできぬまに、遷化されてしまった。
「孝行したいときに親はなし。さればとて、墓に布団は着せられぬ」というが、恩師の報恩も同じである。
密教においては、師から授かった法や教えを次のものに伝えるのは、当然の責務である。そして、さらに興隆させるのが報恩となるのだろうが、なかなか覚束ない。
身内や大切な方をなくすと、みなさん一様に「あれをしておけば良かった、こうしておけば良かった」と思うという。そして、それは、状況的に自然なことである。もちろん、人それぞれ状況がちがうので、そうでないかたもいる。それもまた自然なことである。
ただ、どちらにしても、やらなかったことは、数えようがないので、やったあげたことは何かを確認することが大切かなと思う。
それと同時にいまできることは何かを考えることが必要だ。たとえば、大切な方の意志をすこしでも継ぐことや、故人への追善供養が挙げられる。
恩師の一人は生前「わしが死んだら、覩史多天(兜卒天 とそつてん、弘法大師がいる弥勒菩薩の浄土)から、大森くんに加持して色んな智恵を授けてやるぞ」と言っていた。が、棚ぼた式で授かるわけでもない。供養というコミュニケーションが必要である。
供養は神仏や先祖、その他の目に見えない世界と良い関係を結ぶ。
ゆえに、これで終わりということはなく、それぞれの分に応じて、意識して供養し続けることが大切である。
だからこそ、善龍庵では日々の施餓鬼供養をこころがけている。
滝行場の宝篋印塔