関西地方の寺にいたときのこと。
あるかたの通夜葬儀に出向いた。
故人は十代後半の男性、不慮の死だった。
喪主は故人の父親A氏。
通夜で挨拶したときに「息子さんはご先祖さまの所に行かれますよ」とお話したら、急に怒り出したので驚いた。
話を伺うと「うちには先祖はいない!私が初代だ!」といわれる。けったいなこと言うなと内心思ったが、なにか事情があるのだろうと、よくよく聞いていくと、そのA氏は自分の父親(故人の祖父)ととても仲が悪く絶縁したのだと。そして、父親が死んだときも、葬式すら出なかったそうだ。
それからA氏は、自分に先祖はいないと心に決めた。もちろん先祖供養や墓参りすらしたこともなかったのだ。
この話を聞いて、私は恐ろしくなった。
先祖は根だというが、自ら根を絶つと、このA氏のように、自然と花や実が枯れ落ちてしまうのだと…
実はこの話を書くのは少し躊躇した。それは先祖供養をかたって、高額な仏壇や墓地を売りつける輩も、このようなことを脅し文句につかうからだ。そういう高額なものを買わないと救われないなら、世の中のほとんどの人は救われないことになる。
そして、世の中の不幸の原因がすべて先祖や霊に起因するというつもりは毛頭ない。ただA氏の場合はあまりにも相応していたのだった。
ここで言いたいのは、たとえ、いかなる親先祖であっても、まずその存在を認め、根気よく掌を合わせ、功徳をつみ回向することの大事である。なかなか難しいかもしれない。しかし、それが出来るようになると、自然と自分自身の霊的な流れが良くなるのである。
これが、煩悩即菩提、滅罪生善の妙行なのだ。
宝篋印塔