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泉聖天尊のおはなし その3

泉庄太郎師(泉聖天尊)はもとは讃岐の津田の漁師だったが、明治29年に大阪の南堀江に住んで棺桶作りを生業にしていた。その初めの五年間に父母と妹を亡くしたこともあって、人助けしたいと生駒山への日参をはじめた。

 

もともと、八栗聖天への信仰をもっていたので、宝山寺の聖天尊に草鞋ばきの徒歩(かち)参りをつづけた。

南堀江から約6里、石切から鷲尾山の聖天尊を参り、奥の院宝山寺聖天堂へと参拝した。当時は生駒山のトンネルがなかったので、山を越えて参拝したのだ。

さらに生駒山にある般若の滝と不動の滝にうたれて修行したという。

 

600日目、宝山寺に参拝にきていた一人の老婆が、泉師に向かって柏手を叩き拝みだした。「おばあさん、何さんを拝んでいるのですか?」と尋ねると、びっくりして「ああ、あなたは人間でしたか。いまあなたのお体から後光がさしておりましたから、テッキリ神さまじゃ、と思うて、私は拝んだのでございます」と言う。

 

泉師は「ああ、誠に有難いことでござんすなぁ。私はただの人間じゃのに。あなたかそんなに見えたのは、あなたのお徳が高いからでしょう。ヤレ、ありがたい。ありがたい」と口ずさみながら聖天堂に参ったら「もう、これで山に通いつめんでもよろしい。これから、生まれ故郷の津田へ帰って人を助けて渡せ」と御告げがあったのだった。

 

讃岐の津田にもどった泉師は「生駒の神を父に持ち、八栗の神を母として」を信念に信仰を深められた。

 

「今に助けてもらいにくるぞ」という、前知らせだけでだれも来なかった。業を煮やした奥さんが泉師の数珠を隠したり、漁に出ろというので、しばらくは漁をしたり、拝むことをしていた。

 

そんな泉師には

「時節を待たず、心にいそぐのは、神に無礼ぞ」

「ひとはみな、それぞれの心の世界に住んでいるから、自分の思うことと違うからとて、憎むなよ」

などのおさとしがある。

 

漁にでているときも、塩断ちの行などを積み(たべるのはご飯と砂糖だけ)不思議をおこした。

大正元年の冬、津田湾でボラの魚群を見失った。このままだと、年の瀬が越せないので泉師にお伺いをたてると、『これから八栗寺の聖天さんでお千度をふめ、ほんだらいお(魚)がもどる』といわれたので、さっそく10人が真剣にお百度を踏んで帰ったら、案の定、魚が戻ってきて大漁をした」と伝えられている。

 

泉師が平生口にしていたのは「いかな、やみ夜も朝がある。正直、しょうらい、お聖天さん」

 


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泉師が修行した般若の滝


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