大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

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念頭動かざるに到って則ち霊験あり

『陰騭録(いんしつろく)』には、雲谷禅師が宿命論者であった袁黄(のちに袁 了凡と改名する)に対して、善行を修め陰徳を積み、悪行を退けることで立命できることが教示されている。しかし、その実践には無心でいることが必要であるという。

 

ただ人はなかなか無心になれない。

 

そのために準提呪(準提観音の真言)を袁黄に授けて「おまえはまだ無心になることができない。ただよく準提呪を持して、数を記録したり数えたりすることなく、絶え間なく念誦し続けなさい。真言を持して 熟していくと、(真言と一体になって)持しながら持しておるとも思わなくなり、持しておるとは思わないのに、ちゃんと持しておるようになる。そして、念頭なにものも動かなくなって、初めて霊験があるのだ(念頭動かざるに到って則ち霊験あり)」と教えたのだった。

 

ちなみに、真言は「持する」ものであり「持呪」「持明」(呪も明も真言のことをいう)ともいう。ここは意義深い。

 

さて、いままで数人のかたから、真言を10万遍唱えたが何もおこらなかった、という問い合わせをうけたことがある。

 

たしかに、その真言を説いている儀軌には、真言を何回となえればこういう現象がおこり、こういう功徳があると、成就について記されているので、ついついそちらに意識がいくのは無理もない。しかし、そこがある意味ハードルなのだろう。

 

はじめは、そういうものを求めることが、入り口となって「真言を唱える」。真言の数も目標をたてて、唱えた数も記録する。それは必要だと私は思う。

 

それが次第に「真言を持する」ようになり、終いに持しながら持しておるとも思わなくなり、持しておるとは思わないのに、ちゃんと持しておるようになる。そこが肝である。

 

 

真言宗の僧侶が修行する虚空蔵菩薩真言百万遍唱える求聞持法(ぐもんじほう)でも、往々にしてそれがある。

 

むかし、高野山の今大師とよばれた故金山穆韶前管が、求聞持法の修行中の神秘体験(好相)を「修道日記」として、まとめて発表された。

 

それを読んだ修行者が同じような体験をしたいと、求聞持法を修したが、かえってその意識が邪魔になったという 。

 

ただし、有難いことに、そういう好相がなくても、真言念誦にはそれ相応に功徳はある。

 

そして、心がけるは「持中に於いて持せず。不持中に於いて持す。念頭動かざるに到って則ち霊験あり」であると思う。

 


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護摩を修す金山前管