その2は「神仏に供えるものを、他所から失敬してくる」
泉聖天尊(1862~1918)のところに、ある人がきれいな鶏頭の花を五本もってきて「先生これ神様にお供えしてください」というと、泉師はそれを2本と3本にわけて「おばさん、これ2つあんたのほうにお返ししとくけん」とかえした。
おばさん「先生どうしたんで?」
泉師「いや、おばさん。わからんか。私がお返しする訳わからんか」
おばさん「わかりません。せっかく持ってきておるのに」とご機嫌が
わるい。
すると泉師がニコニコしながら
「おばさん、これなあ神さんに祀られんのじゃ」
おばさん「先生どうしてですか?」
泉師「どうしてって、おまえさんのとこの畑、細長いではないか。幅が一間ほどあって長い畑でないか」
おばさん「そうでございます」
泉師「そこで、おまはん、鶏頭作ったのう」
おばさん「ヘイ、作っておりました」
泉師「あんたの隣にもおなじように、こまい畑がある」
おばさん「そうでございます」
泉師「ところが、おまえさんの畑に今朝は三本しかとれなんだではないか。これお隣のをちょっと失敬して、この中へ一緒にいれてあるけん、お返ししよるのだ」
おばさん「先生、ようお知りなはっとる」
泉師「いや、知っとるたって、これ神さんがきらうがな」
おばさん「先生、今度しまへんけん、かんべんしてください」
泉師「ほんなら、せっかくもってきとるけんな」
と、泉師は神仏におことわりを入れてお供えしたのだった。
泉師は、神仏に供えるのなら、隣の家へ「ちょっと足らないのでわけてください」といって許可をもらえば、神仏に届くので、だまって失敬したものを供えても通じないとのことだった。
宝篋印陀羅尼経にも、お香も買えない極貧のひとは、持ち主のいない山の木をとってきて粉にし、焼香にして宝篋印塔を供養せよ、とある。
持ち主のいる山から、無断で失敬してきたものは、供物にならないのだ。ただし、持ち主の無い山を探すのは難しいが・・・・