泉聖天尊のおさとしに「信心とは、神仏の好まれることをする」がある。
「神仏の好きなこと」とは何か。
それは色々あるが、私は瑜伽行(ゆがぎょう)と慈悲行に代表されると思っている。
瑜伽行は神仏との交流であり、お互いの結び付きを強くして、ついには自分の中に神仏をみつけること。縦の循環。密教ならば修法。ヨーガである。
在家であれば、日々のお勤めや礼拝供養、感謝行などが、広い意味でこれに当たると思う。
そして、次にこの世界(横の循環)で、神仏に成り代わり慈悲の行を行う。
泉聖天尊は、霊力で人助けするだけでなく、寺社参りのときに、参道におちている木や石をよけるなども行っていた。
参道がスッキリする、参拝者は気持ちよくお参りができる、参拝者が清々しいと神仏も喜ぶ、みんなの功徳になる。良い循環を生み出す。
弘法大師は山中で三密瑜伽行を修め、下山しては国家のための修法や庶民教育、治水事業などをなされた。
お釈迦様ならば、菩提樹下の成道までが瑜伽行。残りの遊行しての教化は慈悲行である。
ちなみに施餓鬼供養は主に慈悲行である。
私たちは、弘法大師や泉聖天尊のようなわけにはいかないが、それぞれの立場でできることの実践が大切である。
そう、自分の手の中にあるものを使うのだ。