貴重な体験を、許可を頂いてご紹介します。
「大森先生
Nです。
先ほど滅罪会3日目を終えました。
この度は在家でも出来る貴重な滅罪の機会を設けて頂き、ありがとうございました。
実際に行をやってみるまで想像もつかなかったのですが
罪悪感を感じた己の行動を仏様に報告していく過程で、
途中から逆に自分が受けた怒りや悲しみが多く浮かんできてしまい
懴悔なのか抗議なのかわからなくなることがありました。
ブログ記事で怒りを預けるというお話を拝見して
怒り悲しみを一旦仏様に丸ごとお預けするイメージをしてみると
思考が自由になるのですね。
自分の外に非があっても、自分は罪を作らないという選択もあったのだな
私は自分自身の中の怒りや無知を膨らませて罪を作ったのだな、
だから仏教では怒りを戒めるのかな…とぼんやり考えた3日間でした
滅罪の第一歩は清々しさよりも何か居心地の悪さが勝ってしまう結果でしたが
5月まで少し続けてみようかと考えています。」
このかたは、修行中に怒りや悲しみなどの感情がうかんできたということでしたので、仏さまに預ける方法に加えて「その感情を認めて、供養するつもりでそこに向かって真言を唱えてください」とアドバイスしました。それに対して次の感想を送って頂きました。
「重ねての感想になりますが、
滅罪会、聞くと実践するのとでは自分の中では大違いでした。
過去の事例全部ではないものの、
なかなか心から「ごめんなさい」を言うのは難しことがいくつかありました。
懴悔の言葉を言い終わる前に
「だったら自分が受けた××の件はどうなるの?」という反論が湧きあがってしまい
自分は懴悔も満足に出来ないのだな…と途方に暮れる場面もありました。
大森先生より頂いたメールの、
>それらの感情が自分の中にあるんだ、ということを認めてあげて、
>そこに向かって尊重の気持ちで真言をとなえて供養してあげてください
…という言葉を拝見して、自分の中の悲しみや怒りも
供養してあげる気持ちで接して良いのかと少し驚きました。
懴悔するのは(今の私には)難しいことも多いのですが
思えば勤行集では毎回懴悔文を読んでいる事ですし
仏教が懴悔を大切にしているのなら
今は上手くできなくても
まずは次の5月を一里塚と思って少しずつですが進んでみようかと思います。」
罪悪感を感じるものは、そのまま懺悔すると良いでしょう。それ以外に、わいてくる感情は仏さまに預けてしまうか、それを認めて真言で供養してあげるのもよいことです。
密教には怒りや悲しみなど、さまざまな表情をした仏があります。それは、実はそれらの感情を否定するのではなく、本来は仏としての働き(徳)があることを示しています。ただそうなるためには、認めて供養して整える必要があります。
閻魔様(清水寺)