連休中、朝は通常の勤行に引き続き準提懺摩法、独部法を七日間、夜は毎日の施餓鬼供養に引き続き地天供を七日間修法した。国土安穏をはじめ滅罪と施主各位の無事息災、福徳円満を祈念させていただいた。
そして、今日からは准胝観音の供養法をはじめた。
行というほどでもないが、拝むのに少しまとまった時間が取れて良かった。
この間メールで様々な問い合わせをいただいたが返事が遅れ気味だったのは、修法していたからである。あしからずご了承ください。
そこで感じたのは、たとえ短くても一つの行法、ひとつの真言念誦を淡々と続けることの大切さである
それは雨垂れが岩の一箇所に落ち続けると、やがてそこに穴があいていくようなものである。
私が以前弁財天一印法を伝授した某師は、その後毎日この法を続けていて、おかげで福徳に恵まれてると言っていた。
高野山の故上田天瑞和上は、如意宝珠を念ずる作法を何十年も続けた結果、ミャンマーに戒律の勉強に行った時に、忽然と真珠のような如意宝珠を授かったという。
弘法大師に至っては虚空蔵菩薩の真言を百万遍唱える修行、虚空蔵求聞持法をされた結果「谷響きを惜しまず、明星来影す」と述べている。
ちょっと拝んで効果がないと、すぐに他に目移りするのは人の性かもしれない。そこををこらえて続けていくと、ついに本当の功徳が現れてくるのだ。