供養と気づき。
供養したつもりが供養され。
気づいたつもりが気づかされ。
ありがたいことですね。
ここから頂いたメール
善龍庵 大森先生
この度は納め万霊総供養を誠にありがとうございました。
今回は5歳になる息子が、保育園も終り家にいる中での供養行となりましたので、前回施餓鬼供養をお願いしたときとは異なり、静かな中で供養行をすることが難しい状態でした。
また、訪問もあったりと暮れの忙しさで、供養行が中断してしまったらどうしようと心配をしたりもしました。
しかし、御真言を口にしているとそのような不安も次第に収まりました。
子どもが騒がしいのは元気な証拠。
人が訪れて途中で中断することになっても、それはそれで仏様にお任せすればいいことと思えました。
結局、途中で中断することはありませんでしたが、朝の供養行でそのような不安がちらつき、ちょっと物足りないなと感じたときは不思議とお線香も燃え尽きておらず、夕方の行で再度お線香を燃やすと最後まで燃え尽きていて、なんだか自分の心の状態が現れたように感じました。
また、御真言を上げていると不思議と心が和み安らかに感じるとともに上手く言葉には出来ないのですが、先生から頂戴した阿字本尊図の中に小さな自分がいるようなその自分を見ているような不思議な感覚に包まれます。
そしてご先祖様はいつも寄り添ってくださっている、仏様はいつも見守ってくださっているという感覚があり大変ありがたく感じられました。
忙しかったり余裕がないと感謝を忘れて「どうして・・・」と嘆いてしまう自分がいます。
どこかで自分の都合に合わせてご神仏をみてしまうようなときにも、「こうしなければ・・・」と小さな自分の頑なな思い込みに陥りそうになったときにも、この供養行で感じたような穏やかですべてお任せして大丈夫と思えるような自分になりたいなと思いました。
そして常日頃から感謝できる自分になりたいなと思いました。
施餓鬼供養の時にも感じたのですが、なぜこんなにやさしいのでしょうか?
不思議です。今までお経を上げていてこのような感覚になったことがなく、また一つ救って頂いたと言うことなのでしょうか?
長文になり申し訳ありません。
お見苦しく自分の思いをつらつらと書きましたことをお許しください。
この度は本当にありがとうございました。
合掌