大乗仏教には他の苦しみを我が苦しみとして受ける代受苦の思想があります 。
これには大誓願をおこすことが必要です。
言い換えれば他者の業を自分が受け持つということは、難しいことです。
基本的には善悪問わず業は各個人のものです。故に自業自得と言うのです。
だから今世の課題である自分の罪業は、自らが懺悔して浄化していきます。
心理学にも「課題の分離」という言葉がありますね。まずは人の課題と自分の課題は基本的には分けます。
それならば、懺悔の機会がない他者は救われないのかと言うとそうではありません。
そのために大慈大悲の仏様がいらっしゃるのです。よく身代わり不動とか身代わり地蔵という言葉を聞きますが、まさにこれがそうです。
滅罪会における他者への代理行は、他者の罪業を自らが引き受けるのではなく、他者を仏様とつなげて、仏様に預けまかせてしまうのです。
ここに、結縁の大事があります。
自分の力が及ばないことは、仏様にお頼みするのです。
そのうち、自分の修行が進んだら、自分のできる範囲で手を差し伸べると良いと思います。
もう一つ言えるのが、自分の修行の影響が他者に及ぶことはあります。
常に人はお互いに影響し合ってます。
自分が修行することによって、自然とご縁のある人が感化されます。
そして、その修行の功徳を回向をしてあげることもできます。
逆に修行が進んでいないと相手に引っ張られることもあります。こういう時はきちっと分離しておく意識が大切です。
ゆえに自分自身の修行が先決です。倦まず弛まず続けましょう!
(小さいときなどに感じた寂しさが身体に残っていることがあります。そんな時は内なるチャイルドと対話しても良いかもしれません。1月滅罪会の感想その13をご参照下さい)
【ここから頂いたメール】
大森先生
いつもお世話になっています、大阪の○○です。
1月滅罪会無事終えましたことをご報告させて頂きます、この度もありがとうございました。
次第が届いた折、本行前から行を始めてもいいですよとおっしゃって頂きましたが
1~2回行に着手した直後、人間関係でちょっと大きな出来事が起こり
気落ちしてなかなか行を続けることが出来ませんでした。
そんな折、まるで状況を見通しておられるかのようなブログ記事(「苦楽逆順を越える道」)を拝見して励まされ、行に着手しなおした次第です。
ただ、今回は不調のせいなのか本行前の行でお水のお供えを忘れることが1回、
本行中真言を1種類うっかり飛ばすことが1回(気づいた後そこまで戻ってやり直しました)、
こんなことは初めてでした。
今回の懴悔行で自分自身変わったなと思えることがいくつかありました。
ひとつは過去の出来事(主に人間関係)で、
どうしても怒りがわく出来事を思い出した時、
相手の罪は相手が背負えばいい、それを懴悔するもしないも相手の自由、
自分は自分の過ちを懴悔するだけと割り切る発想がひらめいたことでした。
もう一つつきまとうのがその時々に自分が抱える淋しさなのですが
この感情はどうすればいいかわからずただ准胝様にお預けするばかりです。
それに加えて自分が過ちを犯す原因には無知な事が多い様に今回思いました。
ただ、知らない事はどうしようもなく
結局は経験して学んで間違いは懴悔して、
そうやってしか生きていけないのだなとしみじみ思いました。
そう気づくと今回は准胝尊が小学校の担任の先生のように思えていました。
また、これまではずっと近づきがたさを感じていた宝篋印塔の尊影に対して
今回はもうすぐ春だねと言われているような不思議な優しさを初めて感じました。
あと何故か昨年末の昨年末の納め万霊総供養で真言を多く唱えることに拘って
張り切っていた自分の姿を思い出し、今回の懴悔行中ずっと恥ずかしく思っていました。
全ては自分の心が弱っているがゆえの妄想なのかもしれませんが
毎回思うのは、行はやってみるまで何を感じるかわからない、
ある意味楽しみな部分があるように思えます。
これからも出来る修行や供養は続けていきたいと思っています。
この度もお世話になり誠にありがとうございました。