先日、ある聖天さんのお寺のご住職とお話する機会があった。
実に30年数年ぶりにお会いしたが、私のことを覚えていてくれた。
初めてお会いした当時は、そのお寺の副住職さんだったが、先代の御遷化後、今は晋山され日々の修法をされていた。
その時は私は一信者として参拝していたので、先代の住職から色々と教えを賜った。それは今でも肝に銘じている。
先代の住職は戦争での被災経験があり、その中からお寺を三つ復興している。
相当なご苦労された中で、戦後のものがない時代、着物を売ってお供物を手に入れて聖天様にお供えしたという話を聞いている。
経済的にもかなり困窮してたのでものすごく拝み込んだ。それでもすぐには解決しない。じっくりと聖天さんと向かい合って、少しずつ少しずつ様々な問題を解決して行ったそうである。
毎日井戸水をかぶって修法したので、後年は冷えで膝を悪くされていた。
しかし最後にはその宗派では最高の名誉を授かり、「聖天さんは最後には大輪の華を咲かせてくれた」としみじみおっしゃられていた。
さて話を今に戻す。現住職との話の中で、最近、他のお寺から聖天さんのお堂を建てるので参考にさせて欲しいと、聖天堂の見学に来たそうだ。
最近は聖天さんを拝むお坊さんが増えてきたなぁと思うが、そういう時には「聖天さんは時間がかかりますよ」と伝えてるとのことだった。
聖天信仰といえば、速やかなる霊験がありそうだが、実際はそういうこともあれば、そうではない場合もある。なかなか思ったようにいかないことも。
こちらのお寺のように、じっくりと時間をかけて拝み込んでいくうちに、その人にとって最も良い形になっていくのが本物のご利益だと思う。
それは私自身の経験からも言える。そしてこれは祈願だけではなくご供養にも通じることだ。
祈願をしても願った通りにならない。後でよくよく考えてみれば、それで良かった場合が多い。
しかし、その時に自分の思った通りにならないと信仰を捨てて、他にいってしまったら結局はしっかりしたご利益を授かることができなかっただろう。
その時のさまざまな苦労経験も後には大いに役に立っている。ただ、そう自覚するには結構な時間がかかったが…
本当のご利益があるまでの紆余曲折、それは自分を鍛えるためのご利益。そう受け取れるか否かは自らの心次第である。
そして、大切なのは何があっても根気よく拝み続けることである。