大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

懺悔 供養 祝福 報恩 敬愛 (c)善龍庵 大森義成 禁無断転載

理趣経読誦その2

真言宗では葬儀や法事、お盆やお彼岸の行事などでは必ず理趣経を唱えます。それは亡くなった人がそのまま大日如来の説法の会座(それはそのままさとりの世界)に連なることなのです。

 

本当かな?と思うかもしれませんが、密教では、象徴でさとりの世界を表します。

 

真言宗でお葬式をすると必ず位牌には戒名の上に「ア」という梵字が書いてあります。

戒名の下には、位(または不生位)と書いてあります。

これがとても重要です。

 

「ア」は理趣経で説くところの悟りの境地(煩悩即菩提。阿字本不生。それはそのまま大日如来)そのものを文字で表したものです。

 

この梵字の下に戒名を書くということは、故人様が、このさとりの位に住していることを表します。

 

さて堀内先生の『理趣経の話』には

「一切のもの(法)は。心と物とを全部含めたら一切のもの。一切の法。全てのものは。全てのものは自性は、本来清浄である。これが理趣経

の根本の教えです」

とあります。

これは大日如来のさとりの世界です。

 

亡くなった人が地獄に生まれたり、あの世で苦しんだりする(と私たちが感じる)のは、我々の視野が狭い、とらわれの迷いの世界にいるからです。

 

実はお身内を亡くした時にはこういう感情はよく起こります。無理もないことなのです。だって私たちは迷ってるわけですから。そういう時は御供養することが一番大切です。

 

密教では、大日如来のさとりの世界に入ることで、実は私たちは清らかであったのだ。

色々と自分を苦しめて汚いものだと思っていた煩悩が、実はさとりの世界からすれば清らかなものであるのだ。

地獄も本来は自分のなかの仏の名であったのだ。

と気付くわけです。

 

さて、どうやって亡くなった人がさとりの世界に入るかと言うとお葬式では引導作法というのをします。

ものすごく端的に言えば灌頂作法により、曼荼羅の世界に引き入れます。

曼荼羅と言ったら仏様がたくさん集まっている絵をイメージすると思いますが、あれは仏様のさとりの世界を象徴で表しているのです。

 

その作法が終わった後、あらためて理趣経を唱えてさとりの世界を楽しむわけです。法楽といいます。

 

これは施餓鬼法にも言えることです。

諸々の餓鬼はまずは執着が強いのでそこに加持した飲食物をあげて、満足させます。

 

その後に発菩提心と三摩耶戒の真言を餓鬼たちに授けて、あなた達は本来は心の中に菩提心が有り(本有、ほんぬ)さとりの世界にいるんですよということを実感してもらいます。その後は真言を唱えて法楽します。

 

ただいっぺんにはそのさとりの世界になじまないので、何度も繰り返し供養(修行)することでだんだんとその世界と一致していきます。これを修證(しゅしょう)といい、あわせて本有修證(しゅしょう)と言います。

 

亡くなった人の葬儀のあとの追善供養も同じ意味です。例えてみれば、お葬式は仏様の世界の入学です。そこでだんだんと勉強していてものにしてくということです。

 

さて弘法大師は自分の恩師である恵果阿闍梨の報恩の供養に理趣経に基づく修法を1日3回5日間にわたり行なったと伝えられています。

つまりそれだけ重要だということです。

ゆえに真言宗では理趣経法というのをとても大切にします。

 

滅罪生善の極意と言われており、供養だけではなくご祈祷でもお唱えします。

 

煩悩があるから、悩みがある。

悩みがあるからなんとかしたいと思ってご祈祷を依頼する。

煩悩を捨てよと言う仏様や天部、神様であったらその願いは叶えませんよね。

煩悩即菩提というさとりに裏付けされてるからご祈祷は成就するのです。

ただしこれは煩悩を手放しにして良いということではありませんのでご注意ください。

 

理趣経は文字面だけ解釈すると間違いが起こります。それは迷いの世界で読むからです。だから解釈の本を読むだけでは分かりません。

そこで真言宗では理趣経を教える時に講義ではなく、講伝といい、はじめに許可の灌頂作法を行って伝授の形で伝えていきます。

私も理趣経の講伝と理趣経法の伝授を何回か受けましたが、体得したかと言うと正直なところ難しいです。だからこそ何度も繰り返し読経し修行していくのです。

 

 


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梵字の「ア」字