信仰を続けているとある時「おためし」に会う。
神仏から試されるのである。
それは急な不幸とか病気とか様々な好ましからざることが多い。
だから信仰しているのに、なんでこういう目に遭うんだろうと思うこともある。バチが当たったんじゃないかと不安になる人もいる。
我々は凡夫だから無理のないことである。
しかし、それはより信心を深め、心の玉を磨くための一つの砥石である。
育つための抵抗とも言える。卑近な例えだが筋力を強化するのには手足に重りをつけるのににている。抵抗があるとより強くなるのである。
神仏は私たちを本当に導くために様々な方便を用いる。ご利益もその一つである。そして「おためし」も。これを善巧方便という。いっとき悪いことのように思ったことも、あとからよく考えると非常に巧みなる方便であったと言うことだ。
私もこれは何度も経験している。
神仏から見込まれた人ほど「おためし」のハードルは高い。それはその人に育つ力があることを見抜いているからである。従って越えられないハードルはない。あとは神仏を信じられるか否かである。
生駒聖天に700日歩いて日参して神通力を得た泉庄太郎師(泉聖天尊)は、聖天様の化身である大きな霊的な大蛇に飲み込まれる「おためし」を受けたそうである。
その時、泉師はただひたすら聖天様の御真言を唱えてお任せすることでそのため「おためし」を乗り越えた。
生駒聖天の元の住職であった故松本実道師は次のように述べられている。
小僧から宝山寺に入り、長年にわたり多くの方々のご祈祷や相談を受けてきた同師の言葉には大変重みがある。
信仰している方々の糧としてもらいたい。
「信心とは申すまでもなく、己の計らいをしてて神仏にお任せすることであり、神の心を頂いて神と共に生きることである。事のなる、ならぬは神のみ心にあるのである」
「信仰者といえども病気になることもあり思わぬ災害にあうこともある。それだからとて信心しても何にもならぬものではない」
「神様はよく私たちの心を見定めて適当に処理なさっているようにも思われる。不幸に巡り会うより順調に行った方がよろしく、苦労をしての信心よりも楽々と進む信心が好ましい。しかしこれでは通りいっぺんの信心でしかない。
銘刀になるためには行く度も灼熱の火の中をくぐらねばならぬならぬように、本物の信心に至るまでには幾度かの試練を受けなければならない」(松本実道著『仏とともに』より)
追記 ここで言う「適当」とはその人の状況に相応しいようにということである。
巾着紋の灯篭 西陣聖天