真言宗の碩学であった長谷宝秀大僧正の『真言宗安心要義』には、天盧懐圓師の説を引用して真言宗の安心(あんじん)は「心を菩提心に安住する義なり」と解釈するのがよいと述べられている。
同著から引用すると
「安心の二字はアンジンと濁る時は心をおくと訓みます。心を安住する義で、吾々行者が自分の心を菩提心に据えることであります。もしアンシンと二字共に清んで読む時は、吾々の心の安らかなる義となりますが、心を据えたらば心自ずから安らかになりますから、心安らかなる義も自ずから含まれております」
そして
「安心と信心は同じことであります。心を据えるというのがすなわち信心ことであります」
「信心というのはいかなる心かと申しますと、疑いを離れて心清きを性とすると釈してあります」
さて、この長谷大僧正の説をうけて、それではこれを今の私たちに当てはめ、どうするのかといえば、やはり仏様の教えを信じてよく拝むことになります。
私たちの中に菩提心がある。そこに気づかないでいるので色々な迷いが起きる。
迷いが起きると悩みが起きる。
そういう私たちを導く為に仏様がいらっしゃる。
私たちが気になってご縁を頂いて、手を合わす仏様は全て私達の菩提心の表れです。
たとえば、
お不動様は菩提心がグラグラしないことを表しています。
聖天様は夫婦双身をもって煩悩即菩提と言う菩提心の徳を表しています。
観音様は蓮華を持って私たちの心の中に泥を栄養にして、かつ泥に染まらない菩提心があることを表しています。
如意宝珠を持っている仏菩薩天などは私たちの心の中に如意宝珠すなわち菩提心があることを表しています。
如意宝珠というのは私達の菩提心を表しているのです。
自分にご縁のある仏様を常に念じ、真言をお唱えするということ。
喜びも悲しみも悩みも安らぎも、自分の心を開いて信じる仏様とともにある。この密教の教えにご縁を頂き、拝めることに感謝する。
これが菩提心に安住する。つまり安心(アンジン)であり、それがそのまま安心(アンシン)になるのです。
すると自分の周囲も自然とその心に応じたようになってくるのです。