私たちの感じる罪悪感というのはなかなか巧みでありまして様々なものがあります。
通常罪悪感といえば何かしてしまったこと、例えば誰かの悪口を言ったとか、いじめてしまったと。何かを盗んでしまったなど、行なったことに対して後で後悔をの念を抱いて罪悪感を起こすこと言います。
その中にやっていない罪悪感、やらなかった罪悪感というのがあります。
誰かが困っているのに見て見ぬふりをした。あの時感謝の言葉を伝えていなかった。などやらなかったことできなかったことに対して罪悪感を抱いてしまうというものです。
はっきり言ってしまえば、その時やらなかった出来なかったというのは状況的に仕方のないことなのです。私たちは万能ではありませんので。
だからそこに罪悪感を感じる方はある意味優しい方なのかもしれません。
ただそこにいつまでも苦しんでいて自分を罰していても誰も喜びません。それは仏様に懺悔して、今自分のできることを行うことが肝要だと思います。
さて私は長く仏事に携わっております。
その中で、供養をしなかった、戒名をつけなかった、直葬にしてしまってお葬式をあげなかった、などに対して罪悪感を感じて、どうしたらよいかと相談されることが多々あります。
そういう方には供養というのは時空を超えて働きかける力があるから、今からでも遅くはないとそれぞれの相談に応じる時があります。
浅草寺の元貫主であった故清水谷恭順大僧正の文章の中で、自分の弟子の中で霊感のある元お医者様がいたのですが、お母さんがなくなる時に必ず施餓鬼供養をしてくれと頼んでいたにも関わらずほったらかしにしたという話がありました。
その後、餓鬼に取り憑かれるという体験をすると共に仏道に導かれたという内容です。
懺悔し反省した元お医者さんは結局はお母様の法事の時に遺言どおり施餓鬼供養を依頼しました。
するとその霊眼に感謝をする母親の姿が映ったそうです。
供養というのは基本的には追善供養です。
後から追って善根功徳を積み、亡くなられた方に対して回向をします。大乗仏教の回向は、亡くなられた方がたとえどこに生まれ変わったとしても、その功徳は届くものです。