「任す」というのは何もしないことではありません。それは「捨て任せ」といい自分のなすべきことを行ってません。
私たちは自分の足であゆみます。そのときあまりにも背負っているものが大きいときには、神仏にあずけてしまうのです。自分の力の及ばない、どうしようもないことは預けてしまう。
自分でなんとかできることは、やりましょう。
この方はとても良いことに気づきました。
ここからいただいたメール(ご本人の許可を得て掲載しています)
先生、滅罪会のご修行有難うございました。
ペットのコマッチャンのお施餓鬼もまた有難うございます。施餓鬼をする前は、涙が出ていましたが今はしっかり供養をしなくてはと拝ませて頂いております。
滅罪会で気がついたことが一点有りました。
私は小さい頃から親にも褒められなかったので、何時も褒められたくて一生懸命頑張っていました。
しかし、高校受験が終わった頃プツッと精神の糸が切れたようになり何もしたくなくなりました。一生懸命やっても誰も気にもしてくれないと(特に親から)生きる気力が無くなってしまったと言うか、惰性で生きていた様に思います。
母が勧めた新興宗教でしたが、「絶対に幸せになれる」何ていう言葉にすがるように一生懸命やりましたが、良いように利用されただけでした。そこを離脱してから、この世界に希望はないと思ったのでしょう、そしてまた希望を無くしたのです。子供が居たおかげで死なずに済んだのかなと今にして思えそら、寒々しい気が致します。
ご神仏が、何とかしてくれると言うような他力本願の、すがるような気持ちで接していた事に気が付いたのです。何時もいつも守って大切にされていた事に目もくれず、自分で出来ることにも甘えて「一生懸命拝むから何とかしてください。」とダダを捏ねていたんです。
滅罪会の後に少し仕事で困ったことが出てきたのですが、これは「私がする事だ。ご神仏ではない。」と上司の方に時間を貰い、しっかりと話し合うことができました。そして後はご神仏にお任せしようと決めて「シリソワカ」を唱えています。
何だか、少し強くなれたと自負しています。
とても大切な事を教わりました。
貴重な体験をさせて頂きました。
大森先生にも度々ご指導を頂き心より感謝しております。有難うございます。これからも宜しくお願い致します。
季節柄なにかとお忙しいと思われますが、御身大切にご活躍下さいませ。