供養は一方通行ではありません。
供養したものは、供養されます。
供養は拝むもの、拝まれるものがともに安らかになる道です。
供養の作法、しきたりなどは、地域性と時代性があるので、ところかわれば品変わります。おなじ宗派なのにかなり異なることが多々あります。
昔、私がご葬儀をたのまれた関東のかたが、岡山の親戚から、さまざまな風習のことをいわれてとても悩んでいました。関東と岡山ではかなり違う旨をお伝えしました。
供養のありかたは、そういうものなのです。
めちゃくちゃやってよいということではありませんが、それらに振り回されて苦しむのは本末転倒です。
正しい供養ということに過度にこだわるよりも、仏様におまかせして、ともに安らかである供養を意識したいですね。
ここからいただいたメール(ご本人の許可をいただいて掲載しています)
大森義成先生
この度は亡くなった叔父のお施餓鬼供養、ありがとうございました。
最初は、叔父がちゃんと極楽浄土に行けるよう私に出来る事をしたいと考えて、始めました。
叔父の性格は優しく穏やかであった反面、気弱なところもありました。
亡くなった後、真っ暗闇の中、不安で心細くて右往左往している叔父のイメージが私の中で湧いてしまっていました。
私も大好きな叔父がそんな想いをしていると思うととても辛い気持ちでいました。
しかし、7日間毎日お施餓鬼供養と、大森先生に教わった光明真言を唱え続け叔父の安らかさを願っているうちに、叔父が様々な仏様・菩薩様に囲まれて、笑顔でいるイメージに変わっていきました。
私の中でも、叔父はちゃんと成仏出来るという安心の気持ちに変わっていきました。
とある日、山形の叔父の家に電話したところ、葬儀をして下さった住職がしっかり忌日法要もして下さっていると親族が教えてくれました。
もう絶対大丈夫だろうと、今は思えます。
叔父の供養をしているようで、遺族の1人である私の心が癒されました。
供養とは、故人と遺族両方を癒してくれるものなのですね。
今回、すぐにお施餓鬼供養が出来て良かったなぁと、心から想います。
また、今回大森先生と私も供養をする事を山形の親族に伝えたら、皆喜んでくれました。
特に叔父の妻である叔母は、泣いて喜んでくれました。
仲の良い夫婦だったので、叔母はまだまだ叔父の死を受け入れられず、その心情を察するとまた辛くなってしまうのですが…
叔母の事は親族皆んなでサポートしていけたらと思います。
また叔母には、シリソワカと心の中で祈ろうと思います。
49日までは、引き継ぎ光明真言を唱え、叔父の冥福を祈ろうと思います。
大森義成先生、本当に本当にありがとうございました。
また来年もお世話になると思いますが、宜しくお願い致します。
良い年末年始をお迎え下さいませ。