以下は私の勝手な推論です。特に歴史的あるいは民族学的な根拠があるわけではありません。
伏見稲荷の社家であった荷田氏にかんする話。
『稲荷大明神流記』「龍頭太事」
或記云、古老伝云、
龍頭太(りゅうとうた)は、和同年中より以来(このか)た既に百年に及ぶまで、当山の麓にいほりを結て、昼は田を耕し、夜は薪をこる(樵る)を業とす
其の面龍の如し、顔の上に光ありて、夜を照らす事昼に似り、人是を龍頭太と名く、其の姓を荷田氏と云ふ、稲を荷ける故なり
然に弘仁の比に哉、弘法大師、此の山を卜(ぼく)して難行苦行し給けるに、彼の翁来て申し曰く、我は是当所の山神也、仏法を護持すべき誓願あり、願は大徳常に真密の法味を授け給ふべし
然者(しからば)愚老忽に応化の威光を耀て、長く垂述の霊地をかざりて、鎮(とこしなえ)に弘法の練宇を守るべしと
大師専ら服膺(ふくよう)せしめ給ひて、深く敬を致し給ふ
是以其面顔を写して彼の神体とす、種々の利物連々に断絶する事なし、彼の大師御作の面は当社の竃戸殿に案置せらる(以下略)
意訳
ある書物によれば、古老の物語として、「龍頭太(りゅうとうた)」は、和銅年間から100年にいたるまで、稲荷山の麓に庵を構えて住んでおり、昼は田を耕し、夜は薪を求める作業をしていた。
その顔は龍のようだった。顔の上には光があり夜でも昼のようだった。
人は彼を龍頭太となずけた。姓は荷田氏(かだうじ)という、これは稲を荷っていたからである。
弘仁のころ弘法大師がこの山が修行に適していると選んで、難行苦行をしていると龍頭太がやってきて言うには「私はこの山の神です。仏法を護持する誓願があります。願わくは大徳(弘法大師のこと)よ、真言密教の法味を授けてください。そうすれば愚老はたちまちに仏が神になって人を救う力を発揮して、長く仏が神となって現れるこの霊地を荘厳して、永久に弘法大師の密教の道場を守護するでしょう」
弘法大師はこのことは特に心にとどめて忘れないと、深く敬意をもった。
そして、その龍頭太のお顔を面に写し神体として祀り、それからは様々なご利益がたえることがなかった。この面は稲荷社の竃戸殿に祀ってある。
推論
龍頭太は稲荷の社家であった荷田氏の先祖とされる。
「〇〇太」という名前があるのと同じであるが、一つの家柄の長の通称かもしれない。
なぜなら、人が龍頭太と名づけたからである。
そして、和同年間(708~715)から100年に至るまでという時間の長さから一人の人物を指すのにはいささか疑問だからである。ちなみに弘法大師は835年に入定している。
昼は田を耕すことは、稲を荷う荷田氏であるのでわかる。
しかし夜は薪をとるのは少し謎であり、さらに「顔の上に光ありて、夜を照らす事昼に似り」とあるのは、不思議な表現である。
仏教民俗学者の故五来重氏は、『稲荷信仰の研究』(山陽新聞社刊)のなかで
「そうすると龍頭太という人もしくは集団が、夜になると薪を伐って、昼とまがうばかりの火を焚いたことが、化人龍頭太と重ね焼(ママ 称?)されると、その顔もしくは面から光を発したと書かれるようになったと解するべきであろう」
とあり、龍頭太は稲荷神につかえる修行者で山神(稲荷神)と一体化して即身成神したのであり、その修行として田を耕し(供物のため)、薪を取り、炬火を焚いたとしている。さらに五来氏はその火は神に献じる龍灯ではなかったかとしている。さらに無理な推論と称して、龍燈台が龍頭太に転じたとも述べている。火を焚く「ひじり」ゆえにその面が竈殿に安置されご神体となっていると指摘している。
私もこの説を読んでなるほどと思った。これからは、あくまで私の勝ってな推測である。
五来先生は龍頭太が龍灯台の転訛ととらえているが、私は龍頭太はオダイのように山神に仕えて神がかりした、その時の顔が龍のように見えたので、人は「龍頭太」と呼んだと推察する。
それも特に夜に火を焚いたときに、それは強かったのだろう。それは、
「其の面龍の如し、顔の上に光ありて、夜を照らす事昼に似り、人是を龍頭太と名く」
というその様子を表す一連の説明からも言える。
その火は灯明の火。あるいは供物を調えるための竈の火。それが絶えないように焚き続けてたとも考えられる。夜を照らすこと昼に似たりとあるから、小さな火ではなかったので灯明の方が近いかもしれない。
古来より稲荷大明神の御詠として、
「われたのむ人のねがいを照らすとて浮世にのこる三つのともしび」
が伝わっているが、三つのともしびは稲荷山に三つの峰にともる灯明を彷彿とさせる。
稲荷山には柴を焚いて灯明とする「柴灯(さいとう)」の信仰があったのかもしれない。
稲荷山はたぶんに竜神信仰の要素がある。
古く山には多く竜神が祀られている。それは稲作のための水源を司る神だからである。
そして弘法大師に対する「我は是当所の山神也、仏法を護持すべき誓願あり、願は大徳常に真密の法味を授け給ふべし云々」は、龍頭太が神がかった状態、すなわち山神の託宣だととらえられる。
ゆえに山神が憑依した龍頭太の顔はまさに神の顔なので、弘法大師は面に彫り、ご神体としたと察せられる。
それが竈戸殿にまつられるようになったのは、龍頭太が火を司るものでり、竈神としての要素は研究者から指摘されている。
『稲荷百話』(伏見稲荷刊)によれば
明応迂宮記録には「北の山の上に龍頭太とて南向きに社あるなり」とあって、この北の山(北の峰)は荒神峰をさしておりここはもと龍頭太の神蹟であったことがわかります。
と記されている。荒神峰はもともとの地主神を祭祀したとされる。
同著によれば、伏見稲荷のもう一方の社家である秦氏の伝により、龍頭太が昇天したとされる大八島社と荒神峰と大三輪明神の関連性に触れられている。大三輪明神といえばまさに龍神信仰と結びつきが深い。
未完
荒神峰
間峰 荷田社神蹟
大八島社
龍頭太昇天の神蹟