最近何人かから同じ質問をうけたので投稿します。
問 人生に起こる理不尽な出来事に対する悔しさや
怒り、悲しみ、無力感、恨みの気持ちといったものに、どのよう
に取り組むべきか?
答 これはあくまで私の考えです。ほかの見方も多々あります。
私が思うに、自分が苦しまないためにどうするかが大事だと思います。
まず怒りや無力感、その他さまざまな感情がおきるのは、生物として
危機にあっているのですから、原始的な反応として自然なことです。
つまり危機に臨んでその感情をおこして、対応しようとしているのです。
ちょっと違うかもしれませんが、単純に考えると
怒りは攻撃
恨みは逃げる
悲しみや無力感はフリーズ
かなと思います。
これら、すべて自分を守るための感情であり、その時の適切な行動です。
ただ物事は時々刻々と変化します。諸行無常です。
その時は必要でも、状況がかわっているのに、そのままの感情で膠着していては自分が苦しいままで、次の適切な行動がとれません。
(膠着状態が必要なときもあるので、なんでも早く楽になればよいということではありません)
だからまずはこれらの感情を無かったことにするのではなく、
感情を適切に感じて認めることです。
そして、シリソワカと祝福することです。(私のやり方です。その時は必要な感情だからです)
さらに許すことです。(滅罪会の次第にでてきますね)
自分の力だけでは手に負えないことも多々あります。
そこで大いなる存在、神仏に預ける。お任せするということができます。
私も不徳のため、かつてお世話したと思っていた方に手痛い目にあわされたことが
ありました。どうしようもない膠着状況のときは、ひたすら真言念誦です。
無念夢想、あるいみフリーズです。
とくに調伏とかはしませんでした(笑)
少し時間がたって状況がかわったので、適切に対処しました。
ご縁ある方々に助けていただきました。(社会や人とのかかわりが大切です)
するとご本尊の働きと時間の経過で、その方は信用を失い、失墜していきました。
哀しいですが、結局は自業自得。。。
状況の変化も心の変化もそれなりに時間がかかります。ときには何年も。
任せているうちに悪い状況がそれなりに良い方に変わることは多々あります。
あと、大切なのはその時と今は違うということを実感することです。今ここに気がつくこと!
ある程度、上記のことを経てからですが、
信仰があるものならば、さらに宗教的な意味合いに転じる
ことができるでしょう。煩悩即菩提であり「禍転じて福となす」です。
本尊からの生き方を見直すようにとのメッセージである。
魂磨きである。
自分の力を蓄える時期だ。
気づきをあたえてくれたので感謝。
などです。
(これは自然な形で自発的に思えるのがよいです。すぐにはなかなかそうはいかないのが当たり前です。そのためになんらかの修行が必要です)
総じて、次のより安らかな生き方につながる行動動機となる解釈が妥当だと思います。
これがさらに、どのように社会とかかわるかに結びついていきます。(社会との適切なかかわりは最重要です。まずはそういう関われるところを見つけることです。)
※この文章は未完です。また気づきがあれば再度投稿したいと思います。