行住坐臥(ぎょうじゅうざが)知ると知らざると犯す所の是の如くの無量の罪
今三宝に對して皆発露(ほつろ)し奉る
慈悲哀愍(じひあいみん)して消除せしめ賜え
乃至(ないし)法界の諸の衆生 三業所作(ざんごうしょさ)の此の如くの罪
我皆 相代って尽(ことごと)く懺悔し奉る
さらにまたその報いを受けしめざれ
これは興教大師の作と伝えられる「密厳院発露懺悔文(みつごんいんほつろさんげのもん」の最後の部分 真言宗では派によってよく唱えられている。
懺悔(さんげ)というと単なる自己反省と勘違いされることがあるが、この文は懺悔の意味をよく表していると思うのでご紹介する。
ここには、日常の動作におきる様々な罪(それは意識、無意識にかかわらず)を仏法僧の三宝に対して、発露(ほつろ=心の中に隠し、覆っていた罪悪に感じることを告白する)して、その慈悲の力で消除されることを祈念している。
さらにはすべての生きとし生けるもの(六道すべて)の心と言葉と心に作る罪業を、自分がすべて成り代わって懺悔して、その報いをうけないようにと願っている。
滅罪会の修行もここに準じて、実際に仏さまに罪業を告白し、真言を唱えて滅罪を祈念する。
さらに代理で修行するのも同じで、私たち初心では一切衆生とはすぐにいかなくても、ご縁ある方々が自分においての一切衆生の代表なので、気になるかたの代理行を受けているのである。
そして、懺悔は大きな功徳がある。ゆえに真言密教でよく唱えられる五悔(ごかい)の回向方便には懺悔随喜勧請福として、まずは懺悔の福(功徳)が挙げられ、次に随喜や勧請があり、その功徳を回向している。
他者のための懺悔は、同時に自分のためである。なぜなら私たちはかかわりの中で生きているからである。
豪潮大和尚は懺悔は仏教の根本である旨を説いている。
いいかえれば懺悔、さらに三帰が仏教徒である根本なのだ。
だから多くの勤行次第のはじめは三帰依文か懺悔文からはじまっている。
(あたりまえだが、これでやっと仏教守護神のご加護がいただけるのだ)