以前、ある大徳から伺った話。
その大徳は◎◎経の信奉者だった。
そのお経を日々何度も唱えていた。霊験もたくさんあった。
あるとき、弟子から「△△経が功徳があってありがたいです」と聞いて、
100日間△△経を唱えた。
しかし、まったく効験がなかったそうだ。
大徳曰く「お経の浮気したからや」と。
そう、いままで功徳を授かってたのに、ほかに意識が向いたからだろう。
この教訓が示すのは、「信」の重要性である。
なぜなら、仏様の加持力や読経、真言陀羅尼の功徳というのは目には見えないが必ずある。
しかし、功徳が現れないという場合は、それを受け取れていないのである。
つまり加持感応(かじかんのう)していないのだ。
わかりやすく言えば送信機と受信機みたいなもので、仏様が送信機で、私たち受信機で、その周波数が合ってはじめて感応する。
これを弘法大師は『即身成仏義』のなかで「加持とは、如来の大悲と衆生の信心とを表す。仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持と名づく。」と教えている。
かいつまんでいえば、仏様は日の光のように、あまねく私たちの苦しみを抜こうと慈悲の光で照らしている。水面に映るように、私たちの心の中に射している。これを「加」という。そして、それを私たちが信仰者(行者)として、しっかりと感じ気づき続けるのを「持」という。
いくら水面に日の光が映っていても、そっぽを向いて、そこに気が付かなければ、何もないのと同じ。これがいくら拝んでも功徳がないという状態である。
それは「信」がないのではなく、浅いからである。
「信」が深まるとどうなるか、それは心が浄化されて安心感が出てくる。
仏様に守られている感覚がある。ついに加持感応する。
そして、信を深めるのは行を積むことだ。これを「信火行炎(しんかぎょうえん)」という。行を積むことで小さい信の火が、炎となる。
行といっても難しいことをするのではなく、日々の懺悔や感謝、祝福。あるいはご供養など、できることを続けるだけである。
これは登山に似ている。あるところまでは苦しい。そして頂上が見えないと不安になる。しかし、一歩一歩上り続けると、あるとき視界がひらけていくのである。
ご利益信心も入門なのではじめは良いが、そこばかり追求して、あっちふらふら、こっちふらふらしていると、いつまで経っても信仰の醍醐味には到達できない。「宝の山に入って、手を拱いて出るごとし」である。
ゆえに、善龍庵は当初から密教による精神修養、修行の道場としてのご供養や修行法を指導しているのである。
修行大師像