先日、法友のT師が来庵された。
彼は在家ながら仏教系の大学を卒業し、学問にも通じて頭脳明晰である。
しばらく社会人として勤務を経て、仏縁が熟して僧侶の道を歩んだ。
現在の日本の僧侶社会は、ほとんどが寺院の子弟が継承しているためか、独特な世界である。
つまり出家というのは名ばかりで、ほぼ世襲制にちかい。(もちろん、寺院に生まれたが故の悩みもあり、ここではその是非は論じない)
しかし、戒律も廃れ、サンガがない日本では、寺院護持のためには、こうならざるをえなかったのかもしれない。
私の父は教師であり、一般家庭に育ったので、この世界に入った時の余りのギャップに驚いたものだ。T師も中年でこの道に入ったので、私と同じギャップに迷いが生じたようで、それを相談に来たのだった。
ひとしきり彼の話を伺ったあと、その迷いはよくあることで、無理もないことを伝えた。そして、考えてもどうにもならないのだから、彼の所属する宗派の守護神にたいして、一心に読経してお任せし、お導きを頂くようにと提案した。もとから信心深いT師は合点したようで、少し気持ちが晴れたような顔をして帰っていった。
私も経験しているが、だれしも、人生さまざまな困難や迷いが起きる。これがこの世である。ゆえに娑婆(耐え忍ぶ場所=忍土)という。しかし、そうゆう事態が起こったとき、現実的対応をとるのはもちろんだが、同時にひたすら信ずる神仏にお導きを念じるのが信仰あるものの心得である。
たとえ僧形をしていても信仰がないと、うっかりして魔が入り、違法行為に走る輩もいる。しかし、それは結局自分に返ってくるのでご用心。魔の正体は煩悩であり、内なる煩悩が外の魔を呼び寄せるのだ。
お任せするときは「こうしてくれ!ああしてくれ!」とは念じない。なぜなら、それがその人にとって最良であるか否かはわからないからである。あとは神仏の御心のままである。「離我任仏(おまかせ)」である。