以前「大森先生は信仰していて、迷うことはないのですか?」との質問をいただいた。
素直な質問だと思う。
当然、迷うことはある。いやいまだに迷いながら、つねに自問自答の信仰生活である。
私は中学時代から真言密教に縁があった。同級生からは変わり者としてみられていた。当然理解されることはなく、馬鹿にするものさえいた。
両親は特に信仰は持っていなかったが「自分の好きな道を進め!」と後押ししてくれたのでありがたかった。
18歳で得度して、それからは紆余曲折しながらもこの道一本でここまできた。
途中、何度か僧侶をやめようと真剣にかんがえた。しかし、そのたびごとに、不思議なことが起きて、おかげさまで現在まで歩ましていただいている。
いまだに万年小僧であるが、若いときには、手でお寺のどぶさらいから、危険な作業までやってきた。小説が書けそうなくらい、奇妙で理不尽なことが多いのがお寺の世界である。
しかし、どんなに迷っても拝むのはやめなかった。
誤解のないように言うが、拝んで魔法のように何でも解決するわけではない。
生きている限り、四苦八苦はついて回る。
もはやこれまでか!ということも何度もあった。路頭に迷うことも再三再四。
しかし、信仰はそれに耐えて、乗り越えるなにものかをあたえてくれた。
(もちろん現実的な対処も必要)
そういう過程をへて、いまご縁のある方に掌を合わすことを勧めている。
弘法大師は「迷悟我にあれば、発心(ほっしん)すればすなわち到る」と『般若心経秘鍵』に説かれている。
人間である限り迷いの連続である。しかし、迷ってこそ、気づき開ける道がある。
あとは発心するのみである。