しばしば、仏天に怒られているのではないか?
あるいは、怒られるのではないか?
という内容のご相談をいただく。
これはプロの行者の間でもそう言う話を聞く。
私たちは何事か病気や災難に会うと、不安になる。
不安を払拭したいので、その原因を求めたくなる。
それは、原因を知ると安心するという心理が自然に働くからだ。
ある意味、自然な心の作用である。無理もない。
それで、仏天に怒られていると結びつけるのでる。
(病気や禍も、なんでもかんでも、業とか因縁、霊障、祟り、呪いのせいではない。
時の運、つまりたまたまそうなる、こともあるのだ。
例外的に仏天は私たちを導くために、さまざまな方便を使う。
それが、時には私たち視点だと怒られているのかもと思うことがあるだろう。)
しかし、それは自分自身の恐怖、不安を仏天に投影しているだけ。
それが過剰になると、仏天を私たちを罰する存在に仕立て上げて、葛藤してしまう。
私たちが「罰メガネ」をかけて仏天をみているのだ。
その心のからくりに気づくことが、信仰による安心の礎となる。
そこに気づいて、「南無大慈大悲〇〇(例,歓喜天王、稲荷大明神、など名号をいれる)シリソワカ」と唱えよう。
仏天は私たちを罰するものから、たちまち慈悲深い存在にかわるのだ。
恐れることはない。
罰メガネをはずして、慈悲メガネにかけ替えよう。
すると仏天との心の垣根が解けていく。