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11月稲荷山参拝その2

南無大慈大悲稲荷大明神諸大眷属シリソワカ


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四ツ辻にもどり順路へ、大杉大神と磐根大神に参拝

お灯明をあげて、ご法楽。御同行の吉祥成就を祈念

ここは土地と建築の神様である。


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さらに眼力さんへ

 

余談だが、ある僧侶の話。

その僧侶は先輩僧侶から

「お稲荷さんはご利益が早いが、信仰をやめると倍返しの目にあうから信仰するな」と戒められたという。

これを聞いて、信仰のことが全くわかってないなと思った。

だいたい御かげをいただいたなら、やめずに続ければいいだけである。

なにも無理なお参りをする必要はない。

 

眼力さんの元女将の服部さんから聞いた話。

故砂澤先生がおっしゃるには、

自分のお祀りする神様の格をあげるのは、何か特別なことをする必要はない。

日々のお参りを地道につづけるだけであると。

 

稲荷信仰に限らず、不動さんでも観音さんでもお大師さんでも、信仰は地道なものである。何神、何仏であってもご縁いただいて拝みだしたら、続けてこそ真の功徳を授かるものだ。継続は力なりである。それは一年二年では出ないかもしれないが、信仰ある人はそれでも続けるものである。

 

信仰は登山ににている。はじめはしんどいし、なかなか目的地が見えてこない。

しかし、あるところまで来ると視野が開け、雄大な景色を望める。

つづけてみて、はじめてわかる境地がある。信仰の醍醐味が味わえる。

 

私のところに授戒に来る人は聖天さんの信者が多い。

話を伺うと、はじめはご利益欲しさでお参りしていたが、続けていくうちにそういう気持ちが薄れて、ただお参りがありがたくなってきたと語る人が多い。だんだん信仰が身について来たのである。

 

そういう私も若いときは伏見稲荷のちかくに住んでいたが、さっぱりご縁がなくてお参りしなかった。というより、避けていた。

不思議なもので、時期がきてご縁が熟すると、大神様に呼ばれてお参りできるようになったのだ。

 

有難し有難し。シリソワカ