施餓鬼供養を拝みだして35年以上になるが、私自身がこれでさまざまな窮地を乗り越え、なんとかここまでやったこれた。これも仏さま、浄厳大和尚、伝授いただいた大阿闍梨のおかげである。そういうことで、30年ほどは慈悲の実践として自行で拝んできた。それがここ数年は、いつのまにか御縁あって人さまからの依頼でご供養させていただくことになった。
その際、一座のご供養よりは丁寧を期して、七日間七座供養することにした。
(あとはそれを適宜それぞれの状況で継続できるようにもした。それも、その人の希望に応じている)
ずいぶん多くの方の依頼をうけたが、長く続ける方もいれば、一回だけのご縁のかたもいらっしゃる。
私はそれはそれでよいと思っている。原則、依頼はお断りしないし、やめていく人を追いかけもしない。自発的な意志を尊重している。何年かぶりに供養をたのむ人もいる。
もっと良いご供養があればそちらにどうぞ。
そして、こちらと合う、合わないは必ずあるものだ。(ただし供養を途中で中止してくれといった方や当方とは合わない要求のかたの依頼はおことわりしている。それがお互いのためである。当たり前だが、こちら側に併せられるかたのみ受け付けている)
来るものは時には拒むが、去る者は追わないのが善龍庵である。
大きな功徳を頂いた人もいれば、さっぱりの人もいるだろう。
普通が一番良い功徳だという人もいる。
物理的には何もないが、多くの気づきや安心を得た人も。
物心両面で大きな良い変化した方も。
そこはわたしでは決められない。わたしはただ拝むのみ。
あとは仏さまのみぞ知るところ。
◎仏教の実践として
大乗仏教は功徳の積み重ねを重要視する。
とはいっても現代社会では、なかなかそれは実践しにくい。ゆえに檀波羅蜜(布施波羅蜜)の中でも最も功徳があるとされる施餓鬼供養は、大乗仏教の実践には相応だと考えている。
◎施餓鬼のこころがまえ
施餓鬼供養で大切なのは餓鬼や山川地主、などさまざまな諸霊を供養するときに、各々が本来持っている浄菩提心を意識して供養している。その浄菩提心が供養により自然に現れれば(いわば餓鬼などが本来持っている本尊)それに応じた天や浄土に往生する。
宗教によっては不成仏霊や地獄霊だとか、仏典にはない謎の呼称をするが、当方ではそういう呼び方を嫌う。ご供養うける対象は本来はすべて尊いのである。
ただ六道の貧里を往来するうちに、そこを忘れているだけなのだ。
悪霊呼ばわりしている人の中の悪が、外に投影しているだけ。
本来悪霊無し、つくるべからず。
◎自らの本尊の供養
宗教によっては、その宗教のご本尊や神様だけが最高で、そこだけ御供養すれば功徳が多いと主張するが、それではその宗教のご本尊に自分軸をとられて操り人形になる可能性がある。(依存するので楽ではあるが、それは本当のお任せではない。お任せはあくまで自分軸がある程度はしっかりしているのが前提である。そうでないのは「捨て任せ」という)
それよりも、その人それぞれがご縁ある神仏、ご先祖やご縁ある方々などをご供養していくことが、結局はその人自身の中のご本尊(浄菩提心如意宝珠)を尊び、供養することになると思って拝んでいる。
自分の中に本来ある仏(日本では神様も含む)が、最も尊いのである。ゆえに本尊という。そこに気づくと大いなる安らぎがある。