大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

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どんぶり飯で足りるのか

私は一年間だけ、さる加持祈祷のお寺に厄介になったことがある。そこは、形は一応真言宗だが、内容はある修験系のことをやっていた。住職(故人)はテレビにも出演したことのある、その地域ではちょっとした有名人だった。

 

初めてその寺の本堂にお参りしたときに、どんぶり一杯にご飯を供えてあったのには驚いた。

 

寺のものに聞くと、「ご先祖さまはたくさんいるから、ご飯もたくさんそなえるのだ」というのだ。

 

そういう気持ちは良いことだが、過去無数いる先祖たちには、どんぶり飯一杯ではひもじいだろう。問題なのは、ただ供えるだけで、特に拝んでもいなかったことだ。

 

子供のころ、ご飯を茶碗一杯にてんこ盛りにして、おまけに箸までたてらた「亡くなった人のご飯だ!」と親に怒られたが、いわゆる仏壇などに丸くご飯を盛るのを杉盛という。

ちなみに箸を立てるのは、霊魂がよりどころとする、いわばアンテナみたいなものだ。

 

杉盛は沢山を表す宝珠形を意味している。だから仏壇にご飯を供えるときに、杉盛にすれば、沢山、充分そなえていることを意味している。

 

むかし、生駒山宝山寺貫主だった故松本実道大僧正からうかがったのだが、聖天尊にお供えものをするときに、小さい器に沢山盛りなさいと教えられた。同じ量を大きな器に盛ってはいけないと。これも仏壇の杉盛と同じ沢山の意味がある。

 

施餓鬼供養のときも、一器の浄飲食を無数の餓鬼たちに供養する。施餓鬼の印と真言の加持力で、餓鬼たちが満足する量となる。

 

これらを鑑みると、供物は基本的に量よりは霊的な質を重視するのではないかと思う。(もちらん、お供えできるなら、その方の資力に応じて、たくさん供えても良い)

 

※当庵では七座にわたりお経に基づき如法にご供養し、あわせて尊勝陀羅尼をとなえて施主の滅罪生善を祈念します。供養は継続することが可能です。

なお、施餓鬼供養に関すること以外はお返事できませんので悪しからずご了承ください。

 oomorigijyou-segaki@yahoo.co.jp

 


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