この仏様の御真言はどこで唱えてもよいとされているので遠慮がいらない。
私は10代の頃からこの仏様とご縁があり、随分と苦しい時を助けていただいた。
だから今は何かお願いするというよりは、ただただ感謝するばかりである。
准胝観音様に限らず、自分が信仰する仏様ならば、何仏であっても、いつどこででも真言を唱えて全く問題はない。
あるいは四国遍路をしてる時は南無大師遍照金剛、修験道の山に登ってる時はお不動さんのご真言など、その時々にご縁のあるご真言をお唱えする。
病気療養中の方が入院中にベッドの上で真言を唱えて良いかという質問があったが、私は大丈夫だとお答えした。
なぜならば仏様は私たちを救うご誓願を持っているので、場所限定ということはあり得ないからだ。例えトイレの中であっても仏様のお力は及ぶ。(しかし気になるのならウスサマ真言を唱えたらよいだろう)
もちろん専門的な修法する場合は別であるが、それは例外であり、常に信仰する仏様を念ずることが一番重要だからである。
密教で大切なのは常に本尊と自分を結びつけておくということ。
稲荷の大本願愛染寺第三代の天阿上人は法験著しかったと伝えられ「四儀に呪を誦して懈怠することなく」修行をされたと言われてる。
四儀は四威儀で行住坐臥、つまり一日中真言を念じていたということである。
もちろんその時は大きな声で真言を唱えていたわけではなく、わずかに舌先を動かすだけか心の中で唱えていただろう。
寝ている時に真言を唱えられないじゃないかと思うかもしれないが、常に意識していると心の深い部分で真言を唱えているのだ。目が覚めたとたんに真言が浮かんでくるという体験をすれば、それができている。
大体私たちは普段ぼーっとしてればろくな事は考えていない。悩みの多い時はそれがひどくなっている状態である。自分で自分の心を痛めているわけだ。
あるいは外からのネガティブな情報にもさらされている。内からも外からも気をつけなければならない。
常に真言を唱えていれば、それらから自分自身の心を守ることになる。真言は心のお守りである。
心構えとしては念じる仏に自分自身を預ける。何か雑念、悪念、感情が浮かんできても、それを抑えようとはせず、みんな任せてしまうのである。
そして人生の一大事、臨終の時には御真言に乗って仏の浄土に赴くのである。もちろん普段から念誦しておかないと一大事には真言は出てこないからご用心。
アビラウンキャンの石碑 湯島霊雲寺