したがって金剛経を読めば世と離れるとか、厭世的になるとかいうような不自由なることなく、いかなる社会的問題にあっても、金剛経の原理にて解決することが出来ると信ずる。
私の行事として(注、濱地居士は弁護士だった)日々法律事務に服するにしても、朝起きれば先ず第一に座禅する。
そして自分は仏である。仏がこれから社会的の事務に服するのである。
仏がすることであるから、すべてなす仕事に間違いがないという念をおこし、心を静め、気を落ち着けて、世の中の事務に服し得るという確信ができて洗面する。
それから私は仏前に向かって金剛経を一巻以上乃至三巻五巻読誦する。
それから事務に服する裁判所に行くのを常としている。
したがって私は自己の事務を苦痛とは感じない。自己がこの事務に服することは、仏陀が世の中に出てきて、自己の職責を盡すものである。
それで自己の職責を盡す以外に、楽しみを求めぬから苦痛を感じない。
ただ自己の職務の裁きをつけていくことが、何よりも愉快である。
したがって自分が執っている職務は、金剛経の現成であるから、諸天善神がすべて守護して過失なからしむのであると確信している。
それゆえに私が訴訟に勝ったときは、勝つべき道理があって勝ったのである。
負けた場合には負けるべき道理があって負けたのである。
すなわち勝敗をもって人間の取り決めとおもわず、仏がとり定めたという観念に住することができる。
それゆえ私は自分の仕事の上には、粗漏、不親切、手数を惜しむとかいうことは一切しないという覚悟である。
それで私は世間の人々も、すべて金剛経を信仰し、金剛経と一如となり、金剛経の活発発地の活用を現じたならば、自分のためのみならず、国家のため、はた世界人類のため、誠に有利なことと思う。