濱地天松居士
金剛経には真髄はない。否、すべて真髄である。 居士は五十年来「無我相(むがそう)」の三字を真髄とし、これを仏として唱念し、かつこれを信心の対としている。 いまより二十六~七年以前。この無我相の三字を八万四千人の自筆にて募集し、これを基本とし…
金剛経は無辺の理を説き 観音経は無辺の行を説く 最勝王経は二者細説す 専心に読誦すればその要を得ん
諸相は相にあらず 法も非法もみな取るべからず 我相は本来 無我相 一心称名即解脱 天松居士によれば「即」の字は、経典を読む上で最重要であり、一心に称名(たとえば無我相や南無観世音菩薩や南無大師遍照金剛と唱える)することそのものが解脱であるという…
昔より 踏み開きたる 人の道 踏むこそこころ やすかりにけり 朝早く 日の暮るるまで 働きて 常にかわらぬ 人ぞ尊し 天松居士牙塔
かくなりし 後の我が身を 思え見よ 元より我は 無我の相なり 我は只(ただ) 大悲菩薩に 任せてん 死ぬも生きるも 善きも悪しきも
無我と吸い 相と吐き出す 丹田の 呼吸静かに 無我の我となれ 我がものと 思えど無常の 風ふけば 花よりもろき この身なりけり
何事も 己が心の 幻と 知るも知らぬも 如来常住(にょらいじょうじゅう) 思わじと 思う心ぞ 迷えなれ ただ無我相に なりきるぞよし 一念に ただ無我相に なりぬれば アア なるほどの 時節到来
底の無き 桶の月影 求むるな 頭をあげて 大空を見よ 仏(ぶつ)ぼさつ 夢幻泡影(むげんほうよう) 元一つ 無為法而(むいほうに)も 差別(しゃべつ)あるかな 金剛の 経より生まれ 経を読み また往(い)く先は 金剛の郷(さと) 金剛心歌 完 大森補 「底…
妄想 分別さらりと すてて 生まれぬ前の 性(しょう)に徹せよ 白露の 己(おの)が姿を そのままに 紅葉に置けば 紅の玉(古歌) 垢を去り 湯より上がりて 着物着て 元のすがたに なりにけるかな 無我相
雨あられ 雪や氷と 変われども 解(と)ければ同じ 谷川の水 (古歌) 雨あられ 雪や氷を そのままに とけねど同じ 谷川の水 (古歌) 無明より あらわれ出(い)でし 姿にて 明るくなれば 何物もなし 無我相
何時(いつ)見ても 広大無辺の 大空よ 只(ただ)そのままの 如来なりける ただうまれ ただ死んでいく 人の身は ただよりただの 夢の旅かな 無我相
断滅の 相にあらざる 大如来 思量の外なる ものとこそ知れ 断滅も 不断滅も 我念かな 無念になれば 何物もなし 世の塵を さけて大井の 関ケ原 春を迎えて 日当たりはよし 世を捨てし 身にも仏の 恵みにて 不足言わねば 用は足りぬる 無我相
陀羅尼吉祥会が結願したので、濱地天松居士の墓参に。 この赤丸の下あたり濱地天松居士のお墓があります。 濱地天松居士のお墓 墓前で報恩謝徳に金剛経を一巻読誦 日置黙仙禅師のお墓 大船観音を完成させた高階瓏仙禅師のお墓
物尽きて 用は無くなり 人は来ず 思うほどにぞ 経を読みける 棒喝も 口問答も 我相では 無門の関は 通れざりけり 相非相(そうひそう) 二つにあらず 元一つ 木仏金仏(きぶつかなぶつ) 皆如来かな
木像の 釈迦の説法 聞く衆生 己が心ぞ 如来なりけり 平等の 中に差別(しゃべつ)は あるものぞ 桃栗三年 柿は八年 桃は桃 栗には栗の 実がなりて 春と秋との 差別(しゃべつ)あるかな 無我相に なればそのまま 菩薩にて 慈悲よりほかに 何物もなし
地に捨てし 水は再び 雲になり 雨やあられと 降り来るかな 渓川の 水は流れて 尽きざれど 溜まりし水は 限りあるかな 南無仏と 尊く思う 姿こそ 説くに勝れる 大功徳かな 金剛尊天石碑
したがって、むかしから金剛経に帰依した人で、身体の健康を得、福寿を得た人の例がすこぶる多いことによって、金剛経の活物であることを証することができる。 居士も昭和15年に77歳で大患にかかり、すでに体温を失い、口もきけず、医師にも見放されてし…
大森補 濱地天松居士は金剛経の訓読を勧めている。(私は音訓両方読誦している。音読も味わい深い)金剛経の注釈書を読むことを天松居士は勧めていない。 私自身は、天松居士在世中には無かった、岡野守也氏の『金剛般若経』全講義(大法輪閣刊)は読むことを…
(前略) 金剛道の生活は金剛経を読むことと、坐禅をすることのほかにはない。 金剛経 静かに読めば 自ずから 我と如来と 一つなりけり 坐禅して 非思量ならば 自ずから 我と如来と 一つなりけり 金剛経 ただそのままの 如来かな 毎日無念になって以上述べた…
降り積もる 雪で固めし 達磨かな 溶くれば元の 水となるらん 庭続き 日本一の 富士の山 誰のものとも 思はざりける 縁あらば 縁に任せて 世に盡す 清きこころぞ 菩薩なるらん
清浄に 明るく強き心こそ 所得に勝る 所得なるらん 清浄の 心は何の 影もなし 只(ただ)そのままに 置くぞよろしき 如は如なり 思量分別超越し 仏の外に 知る人は無し 実じゃ虚じゃと 思量分別の つきはてて 清きこころの 元に帰れる
一粒の 種も秋には 稔るらん 善きも悪しきも 我がわざ(※ 業)と知れ 一心に 金剛経を 読誦せよ 不思議の功徳 あるものぞかし 金剛の 不思議を知らぬ 人たちは 理屈ばかりで 信心はなし 五十年 金剛読誦 これよりは 世界の平和 一に祈らん oomorigijyou.hate…
若きより 金剛読誦 五十年 唯(ただ)そのままの 仏なるらん みほとけの み聲聞きたり 一心に この経読める ありがたき聲 みほとけの み姿見たり この経の 一字一字に ひかり輝く
わがものと 思えど無常の 風吹けば 花よりもろき この身なりけり 我の身の 生まれぬ前を 思えかし 空ふく風や 松の下露 かくなりし のちのわが身を 思えかし 元より我は 無我の相かな 我の身と 思うがゆえに 貪瞋癡(とんじんち) 五欲十悪 末は無茶苦茶 無…
仏法は 唯一念の信心ぞ 信よりほかに 仏法は無し 何事も 見ざる 聞かざる 言わざるで 大死一番 生まれ来よ 我の身は 地水火風の 仮の宿 移り変わりて あとを止めず 春は花 夏は青葉に 秋は月 冬は雪にと 移り変わりて 無我相の 中に我もあり 人もあり 法も …
草の庵 訪ふものは 華ならで 心の清き 法の友人 信心は 理屈不理屈 さらりと捨てて 称名(しょうみょう)看経(かんきん) 真の仏法 この経を 一心不乱 読誦せば 我相(がそう) そのまま 如来とはなる
したがって金剛経を読めば世と離れるとか、厭世的になるとかいうような不自由なることなく、いかなる社会的問題にあっても、金剛経の原理にて解決することが出来ると信ずる。 私の行事として(注、濱地居士は弁護士だった)日々法律事務に服するにしても、朝…
運命は自己の行いの善悪と心の正邪とにより、時々刻々に変化して一定するものではない。 だから、いつ災難にあうとか幸福に恵まれるとかは、予測しがたいものである。 しかし、常日頃から行いを善くし、心を正しくするときは、禍いを転じて福となすことがで…
生滅(しょうめつ)も迷悟(めいご)も 己が思量かな 非思量(ひしりょう)なれば そのままぞかし 坐禅して ただ無我相になり切れば 己がこころの 本性を見ん 無我相(むがそう)に なれば本(もと)より如来にて 不生不滅の 身とはなるなり
雪消えて、花は散りたり 葉は枯れて 月さえ渡り 寒風ぞ吹く 捨ててみよ 身をも心も 捨ててみよ すつるものなき 身をも心も 捨てきって 無一物より 生まれ出よ 広き世界が 我が物になる