私自身は神仏への御祈祷を否定はしないし、実際に自分自身も多分にかかわってきた。
慈雲尊者も、そういう祈願が仏教に入る門であると説いている。
ただし、神仏の功徳を授かる人とそうでない人がいる。理由は様々であるが、慈雲尊者が瞠目すべきことを説いている。
慈雲尊者の『十善法語』を読む(大法輪閣刊、小金丸泰仙先生著)の中に次の文章があるのでご紹介する。【】内引用
【神仏への参拝について、尊者が教示されているところを引きますと、
「神様には物を乞うものではない。神には供養するものじゃ、よって納受あるじゃ」(双竜大和上垂示)
神には誠の心、赤心(大森注、きよきこころ)だけが通じていくのです。(仏教では直心.清浄心)これもつまりは無私、無碍、空、と同義ですので、神祇を拝む時にも『般若心経』を読誦するのです。これは般若の空によって神祇の威徳を増長するからです。(『神道国歌』『比登農古乃世』)
「神祇に祈り、仏菩薩に求請するにそのしるし有無はかりがたし、大抵は私の逞(たくま)しきもの。誠なき者。思慮多き者は仏菩薩神祇の受納なきなり」】
神様には願いかけるよりは、供養をするものである。すると神はその供養を納受されて、冥々にご加護があると。
般若心経をはじめ般若経典をお唱えしてご法楽する。
そして、自分のことばかり願うもの、誠がないもの、頭であれこれ考えて一心に祈れないもの、神仏はそれらの祈りを受けとらないのであると。
ちなみに、黒住宗忠師は岡山から伊勢の神宮に参拝した時、天照大神の御開運を祈念したと伝えられている。
いかがであろう。
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慈雲尊者全集十三巻から双竜大和上垂示