大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

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お地蔵さまのはなし その2

古歌に「他(ひと)をのみ渡し、わたしておのが身は岸にのぼらぬ渡し守かな」というのがあります。

私どもの若い頃は隅田川なども渡し守(もり)があちこちにありました。浅草と向島との間も渡しで往復したものであります。もし渡し守が浅草から向島へ、人を渡して自分も岸に上がってしまったのでは、向島から浅草へ来る人は困ってしまいます。

遠く吾妻橋を渡ってこなければなりません。そこで雨の日も雪の日も、毎日船をこいでお客のみ渡しわたして、自分はその日の稼業を終わって、家に帰るときに初めて岸に上がるのであります。

 

ですからその行為は菩薩行であります。すなわち渡し守菩薩であります。

しかし考えてみると、その行為(はたらき)によって、我々は二銭なり五銭なりの船賃を払い、船頭すなわち渡し守は、それによって自分の生活を支えたのでありますから、他の利便利益をはかることによって、自分も利益されたのであります。

社会はすべて大なり小なりこのような方法で生活が営まれておるのではありませんか。

 

近来は渡しなどはなくなり電車、自動車時代に代わりました。現代人で電車、自動車のやっかいならぬ人は一人もありますまい。ところがその電車、自動車がことごとく運転手さんによって動かされておるのであります。運転手さんも人間です。気持ちの悪いとき、大雨の朝、大雪の晩など、休みたいと思うこともあるに違いないのですが、乗客のため、また会社のために努めて出勤して働くのであります。

 

つまり他(ひと)のために働くのであります。その働いておる時には、働くという行為が自分の使命であり生命の輝きでありまして、これすなわち菩薩に外なりません。だから運転手菩薩であります。ただし運転手菩薩も乗客の支払う運賃によって自己の生活が営まれるのでありますから、他を利することが即自分を利することになるのであります。

 

それゆえ伝教大師は「菩薩にはすべて自利なし、利他をもってすなわち自利となすがゆえに」とおおせられております。ですから社会協同の利益のために働く精神は、菩薩精神であります。スリや泥棒や詐欺や博打などいかに精だしてやっていても、他を利益するということはないのでありますから、それらの人々は餓鬼道の衆生であります。

 

それゆえ妙な話のようでありますが、観音さまや地蔵さまは本当に信仰されるとそのご加護によって、他を損し自らのためにもならぬような、前記の如き行為はぴたりと止むのであります。それが人間菩薩でなく尊い菩薩様のご利益であります。

 

私の在家の弟子であった故人が若い時から44、5歳ごろまで博打が好きで好きで身が持てず、請負業者でしたから他に働きに出ても、いつもせっかく働いて得た金を満足に家持って帰ることはほとんどなく、家庭は常に火の車でありました。

 

ところがある年、甲州(注、山梨県甲州市)の方の工事を請け負って出張し、昼間は働き夜になるとバクチを打っておったある晩、水晶店(注、甲州は水晶の産地)のショウウインドーに並べられてあった水晶の聖観音さまのお像を見ると、これが欲しくなって買い求め、持ち帰りましたところ、その晩からバクチが嫌になり、その後いかに他人に誘われてもどうしても打つ気になれず、それっきり64、5で亡くなるまでついに一度もバクチをせずに終わったのであります。

 

この人は観音様にご縁のあった人で、自然に深い観音信仰に入り、高村光雲、山本瑞雲などとも親しく交わり、晩年は立派な人柄となりました。

 

このようにご利益を観音妙智力(かんのんみょうちりき)というのであります。地蔵様でも同じであります。ですから人間の立派な人を小菩薩と称し、お経に出ていらっしゃるような福徳広大無辺な菩薩方はこれを大菩薩と申し上ぐるのであります。

つづく

 

浅草寺の貫主であり、天台密教の大家であった故清水谷恭順大僧正の「地蔵経を語る」(『浅草寺仏教文化講座』第6集所収 昭和37年6月18日刊)から一部抜粋して転載

 

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シッポ堂さんの錫杖をもつお地蔵様 お彼岸にあわせて善龍庵にお迎えしました。

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