神仏との感応は鐘をついて音があるようなものだと。
金華山人著『鎮宅霊符神 秘密感応修法集』を読んでいると題の通り、興味深いことが書いてあった。
意訳してご紹介する。
(ここから)
おおよそ、人が天から命をうけるのに差があるのは、私たちの顔が一人一人違うようなものである。
しかし、運命が悪いとかなしむものではない。
ただ大事なことは心を強くもって、その立場を論ぜず、自分の望みの成就するための感応を受けることは、じつに鐘をつくようなものである。
その信念が厚ければ、力強く鐘をつけば大きな響きを得るように、多くの幸いを得るだろう。
もし、その信念が薄ければ、力弱く鐘をつくように小さく響いて、同様に幸いを受けることは少ない。
信念が弱くて疑い深いものは、救済の道があることを知らないのである。
神仏の感応は決して形式や情実を許さない。たとえ多年いかなる神仏を信仰しても、霊験が現れないという人は、みな半信半疑である。
それなのに、他人が霊応を受けるのをみて羨んで形だけをまねるのに過ぎない。
信念がしっかりしていないのに、人のまねをするだけのものは効験がない。
それで、この神仏に霊験なしと思うのである。その道理を深く省察すべきである。
(ここまで)
ただし、信仰初心者は信念堅固はいきなりは無理なので、はじめは他者をまねるところから始める。
しかし、それがいつまでたっても、ふらふら心が定まらないのでは、感応しない。
そして、大事なのはすべてを放り出して信仰に狂うのではなく、現実生活で自分がなすべきことは成したうえで、倦まずたゆまず信仰を続けることである。こころしたい。
ちなみに、羽田先生が教えてくれたのだが、この本が引用している『鎮宅霊符神縁起集成』に妙見尊が地に下ると「宇賀神」になるとある。伏見稲荷では昔は宇賀神の護符を出していた。つまりお稲荷様も妙見尊に通じるのである。さらに妙見尊が怒ると荒神になるとある。