何事を始めるにも一つの順序と道が必要である。それ相応の予備知識もなく準備もできていないのに、いきなり本物の取り組むところに無理があり、従って目的を達しないばかりか、元も子もなくしてしまう場合が多い。
信心の世界にもやはり一つの道がある。
どの道を辿ろうと勝手のように思えるかもしれないが、やはりそれは労を多くして功なしに終わるか、横道に迷い込んで帰って身を損なう危険さえある。
古来、信心を本物に仕上げる道と、その順序として聞、思、修(もん、し、じゅう)を教えている。
聞(もん)とは、すなわち信仰についての正しい教えをよく聞いて理解しなさい、ということである。この最初の聞を間違ってしまうと大変な横道に迷い込むことになりかねない。良い師を選ばなければならないわけである。
(しかし、良い師とご縁を頂くのはとても難しい。うっかり良い師だと思ったら違っていたということもある。見極めは慎重に。私の経験ではやたら弟子を取る人は面倒見が悪いことが多い。大森)
つづく
故松本実道長老著「仏とともに」朱鷺書房刊(絶版)から引用
(読みやすい異様に、若干文字や句読点、ルビ等を改めた)