(かつて私は松本長老から教えていただいたことを今でも実践している)
古くから苦しい時の神頼みという誠に便利な、また都合の良い言い習わしがある。
これは一般には、平常は無信心でも、さて困ったという時にお願いすれば神仏はお助けくださるというのであろうけれども、それは誤った自分勝手な解釈であって、このことわざの作者はそんな意味で言ったのではない。
私たちは健康に恵まれ、財産、地位を得、何不足なく、すべてが自分の思うようになっている時は、「この世をばわが世ぞと思う」の、高ぶった心になっているけれど、長い生涯の中には必ず、財産も地位も、親類縁者も頼りにすることができない場合がある。
この世にの中に何も頼るもののなくなった時に、今まで長い間、心の奥に潜んでいた良心が蘇り、ここに初めて目が覚めて、私たちの見守ってくださる神・仏の御名を呼んでおすがりしなければならなくなるのである。
苦しい時こそ、信心の道に入る動機なのである。
つづく
松本実道著『仏とともに』(絶版)から
※まさに苦難こそ自らの仏に気づく導きの手ですね
そして、せっかく目覚めた神仏を求める心ですが、
困りごとがなくなると、つい神仏から離れてしまい、忘れがちなるのが私たちの悲しい性(さが)
「喉元すぎれば熱さ忘れる」にならないように。
大森