平素は何とも思っていなくても本当に困った時、苦しい時は神頼みするより、他に途がないのが人間なのである。
苦は望むべきものではないが、必ず色々に姿を変えて人間の身辺に近寄ってくる。その時に至って、慌てふためいて祈りすがってもその印がないから、平常より信仰して神・仏とのご縁を深めておけ、という訓えではなかろうか。
もちろん諸仏神のお誓いは深く、まして歓喜天尊は他の諸神に見捨てられたものをも救い、助けずにはおかぬというご誓願であり、これは少しも疑うことはできない。
この深い御心も「苦しい時の神頼み」ではいただくことができないのである。
天尊が下さらぬのではない、私たちにそれをいただく心の準備ができていなければ、お受けするわけにはいかないのである。
松本実道長老著『仏とともに』(絶版)より
>天尊が下さらぬのではない、私たちにそれをいただく心の準備ができていなければ、お受けするわけにはいかないのである。
ここが加持の原理ですね。仏の光を私たちの信心の水が映し出すのです。
いくら仏が萬徳円満でも、受け取る方がそっぽを向いてては、何も成就しないのです。
『月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ』
は、法然上人の道歌ですが、この歌は加持のこころに通じると某大阿闍梨からご教示いただきました。
また、豪潮律師は加持のこころを問われて次のように詠みました。
『秋の野の 草の葉ごとに おく露の そのほどほどに うつる月影』
信心は心の水を清める道。清らかな心は、仏の光を映しだす。大森