滅罪会が始まりました。
記念事業の法要で高野山に向かう前から、忽然と罪悪感が湧いてきていました。ふと心に浮かんだのでした。
私はその罪悪感を、打ち消そうとはしませんでした。ただ、それが「ある」と認め、そこにあるものとして、静かに気づきを向けました。
心に湧いた思いを否定せず、無理に意味づけすることもなく、なかったことにしようともせず、ただ見つめる。そしてそのまま、静かに仏様を拝むことを心がけました。
罪悪感というものは、決して過去の行為そのものではなく、その記憶に対して「今の自分」がどう感じているかということに他なりません。
その当時には何とも思わなかったことでも、時が経ち、心が少し成長した後に振り返ってみると、ふと胸が痛むことがあります。だからこそ、罪悪感は苦しみであると同時に、自分がより繊細に、より誠実になろうとしている証なのかもしれません。
そんな思いを胸に、高野山の奥之院に参拝したとき、私は自然と「◎◎たちのために灯明を灯したい」と思いました。
それは、過去にかかわった人々、ご同行、悩み苦しんでいる人たち、そしてすでに亡くなり、今となってはどうすることもできない方々など。
そうした方々を思い出し、そのすべてのためにと念じながら、お大師さまに灯明を数本ともし、持参のお線香を供え、真言を念誦し、御宝号を唱え、私はただ無心に拝みました。
不思議なことに、その行為は「誰かのため」であったはずなのに、拝み終えたときには私自身の心がふっと軽くなっていたのです。
罪悪感を解消しようと、意図的に何かをしたわけではありません。ただ、お大師さまの慈悲の光に照らされて、心がやわらかく包まれたような、そんな感覚でした。
その後、いつのまにか、気にかかっていたことや、頭から離れなかった思いも、自然に薄らいでいったのです。
誰かのために祈るということ。
誰かのために灯明を灯すということ。
誰かのために供養するということ。
それは巡り巡って、自分自身をも照らしてくれる行為なのかもしれません。
合掌
奥之院 御廟の橋