このブログでなんどか紹介している、泉庄太郎師(泉聖天尊)のご法話を紹介しよう。
あるとき、泉師は八栗寺の聖天尊へ信者と大勢でお参りいった。
道中で竹にからんでぶら下がっているキュウリをみた信者が、泉師に
「先生、信仰はあんなものでしょうか。あのキュウリ、神さんという竹にしっかりと、からみついている。あの竹がなかったり、もしあっても、キュウリがそれを頼りにしなかったら、大きく育ちもしないし、実もなりませんよね」
というと、泉師はほほえんで、
「まあ、そんなもんじゃなあ。ただ竹にからむだけでは、不十分じゃなぁ。それだけでは、神様もしんどいなぁ。(神様は)助けようと待って居られるのではあるが、こちらからも、うんと精をだして、せっせ登らにゃ。毎日、功徳という大きい根をはりながらなぁ。たのんでばかり居ると、おかげ(ご利益)がうすい」
とおさとしになられたそうだ。
「陰徳(いんとく)あれば陽報あり」(淮南子 えなんじ)ともいうが、信仰あるひとは大地に根を張る様に、見えないところで功徳を積む心がけが必要だと思う。(隠徳思想は道教的考えであるが、匿名での寺院への喜捨など、日本の仏教における積善信仰に影響を与えている)
ちなみに泉師は、寺社参りのときには、杖をもち参道の枯れ木や石を端によせたり、墓参りのときは、樒をどっさり切って、無縁さんに供えたそうだ。
墓参りのときは、線香を少し残して、六地蔵に供えたり、三界万霊の施餓鬼は慈悲の功徳行である。