人は何かよくないことがあると不安になる。
不安から逃れるために、原因をさぐろうとする。
理由を知ると安心するのが、人間心理なのだ。
しかし、不安なときは心が弱くなっている。
「それは〇〇の霊がついた」「仏壇の祀り方がわるい」
「〇〇の因縁、霊障」「お墓が凶相」
などと言われたらどうなるだろう。
当然、さらに不安になり混乱する。
混乱すると洗脳されやすくなる。
眼に見えない世界のことだから、それをその道の権威?と称する人から言われたらどうだろう。
さらに不安の連鎖にはまっていく。。。
すっかり、その道の権威に洗脳されて、それを解くのは容易ではない。
(これは私見だが、経験上、霊的な問題はあると思う。しかし、世間でいうほど多くはない。何でもかんでも霊のせいにするのは眉唾もの。実際あるのは、霊能者と相談者の語りのなかで繰り広げられる「霊の問題ということにした物語」である。
いいかえれば「なんでも霊障!メガネ」をかけて物事を見ているのだ。ただし時としてそれが功を奏する場合もある。しかし、悩める人の為にならないときはその眼鏡を外すのがベストである)
これは故佐伯泉澄大僧正の『真言密教の霊魂観』(朱鷺書房刊 絶版)
「霊的な脅しから脱出するために」からの引用である。
私もこの話は直接お伺いしたが、この本に詳細が書かれている。
佐伯大僧正はA霊能者に8年間も心酔するあまり、たいへん痛い目にあったそうである。
その霊能者は私も知っているくらいで、当時マスコミにも登場し有名だった。
痛い目にあった話とは
ある人にとりついていた狸の霊が、そのA霊能者の除霊で離れたは良いが、
「佐伯師の身内にとりついた、ほっておくとトンデモなことになるぞ」
とおどされたのだった。
(同著221ページから)
某霊能者から上述の言葉を聞いて私は恥ずかしいことながら恐怖のどん底に落ちた。
しかもその狸の霊は、その人が人生相談に応じた某霊能の新興宗教の信者についていたものだという
詳しいことはお許しいただきたいが、そのたぬきの霊を先生が祓うと転々として、しまいに私の近しい人についたと言う。
そこで、その人(狸の霊がついたと言われた近しい人)に私は相談した。
「先生にお願いしてそのたぬきの霊を処置して頂こうか?」
するとその人は、
「このたぬきの霊を処理していただけたとしても『次に〇〇の霊がついている』『また次についている』と言われたら、これから次々どれだけお金がいるか分かりません。
とてもそのお金が続かないからあなたがご祈祷してください」
とたのまれた。
そこで上述のようにこの先生(注、A霊能者)と別れることにしよう、と私は決心した。
中略
お不動さまを中心に、本尊様、お大師様に一心にご加護をお願いした。
お陰様で私もその人もともに生きながらえさせていただいている。
したがって霊能者の脅しに怖がる必要はない。
と述べている。
そして、佐伯大僧正は
「巧みに脅しの入っている信仰は、本物の信仰ではない。安心(あんじん)こそ信仰の至る境地である」
と喝破している。
『弘法大師のみ教えを慕って 因縁・霊 ー恐怖からの脱出』から その1 - 大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵
『弘法大師のみ教えを慕って 因縁・霊 ―恐怖からの脱出』から その2 - 大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵