神仏に恐れを感じることがある。
それは大事である。
なぜか。
自分を慎むようになるからだ。
悪事を抑制する作用がある。
ただし、注意が必要。
それは神仏を自分を罰する存在に仕立てないこと。
神仏の罰ということにして、じつは自分が自分を罰しているのだ。
自分の不安なこころや罪悪感を神仏に映しているだけ。
正しい信仰では神仏は、まれに注意喚起はするが罰しはしない。
そっちに行くとあぶないぞ!とつよく示している。
(ちなみに障りは自分の煩悩が生み出す。そのときは懺悔滅罪が大事)
もし、神仏を罰する存在に仕立てているなら、そこに気づくだけでよい。
次第に神仏との垣根が取れてくる。
何がおきても神仏の慈悲に照らされているのだと感じる。
すると自分もそれに倣い、慈悲を実践するようになる。
慈悲が強くなると、恐れから畏(おそ)れへ変わっていく。
畏敬の念が生まる。
高野山 奥之院にて