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観世音菩薩と同化 意訳 その1 濱地天松居士

濱地居士が信仰者の心得を説いているので、意訳してご紹介する。

 

私の経験では、居士が説くように、悩みがあっても、それに耐え、ついに乗り越える方は、自分の念じる仏様が定まっている。それは一尊でなくてもよいが、常日頃からよくおがんで、親しんでいる仏様である。

 

あちらが効くといえば、あちら。

こちらが良いと聞くと、こちら。

あちら、こちらとフラフラとしてるとなかなか性根が定まらないものだ。力も拡散しやすい。

 

(ここから濱地居士のお話し)

 

観音経に、「観音様の名前を聞き、その御姿を見て、心に念じて、むなしく過ごさないのであれば、よく諸々の苦しみを滅す」とある。

これは、自分のとらわれの心を離れて、観音さまと同化すれば大安心を得るという意味である。

 

だから観音様を信仰する人は絶えず観音様を忘れることなく、深く念じ続けて観音様と共にあり、阿弥陀仏を信仰する人は常に阿弥陀仏を念じること。

同様に自分が信仰する神仏をそれぞれ、常にその神仏を念じ続けることである。

 

それはなぜかと言えば、心が信仰する神仏にさだまらずフラフラするのは、迷いのはじめであり、諸々の苦しみの原因であるからだ。

仏法の極意はここにある。

 

そして、観世音菩薩とそのほかの仏菩薩は名前が異なるが、本質は同じである。

だから、どの神仏が優れているとか、ご利益が早いなどと本末を論じてはならない。

 

なぜなら、念じ続けてその神仏と同化することが目的だからである。

だから自力他力を越えている。たとえば太鼓の「ドン!」という音は、

太鼓の胴と皮とバチとそれを握る手によって鳴るようなものである。

 

だから神仏をあれこれ論じるべきではないし、自力や他力と分けるようなものではないのだ。

 

続く

 


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