信仰していても苦難に会うことはある。それは仏教の開祖や高僧でさえもそうである。
それをどうとらえるか。それが生きていく上での処し方にかかわってくる。
信仰の初心者(いや長く信仰している人でも)にはかなり難しいかもしれないが、一つの参考に濱地天松居士のお話を意訳して紹介する。
金剛経に「もしも善男子、善女人がこのお経を信仰し読んでいるにも関わらず、人から軽んじられたり、さげすまされるようなことがある。それはその信仰する人が前世の罪業で本来ならば悪い境遇に生まれるところを、この世で他者から軽んじられたりすることで前世の罪業が消滅しているのである。それを心得て信仰をつづければまさに大いなる悟りをえるだろう」とあるのは信仰するものが十分に味わう心得である。
お経や真言を唱えて信仰することで、なんでも自分の思うようにしようとしてもそうはいかない。
人から悪く言われたり、さまざまな思いもよらない災難にあうこともある。これは自分の前世の罪業をいま埋め合わせしているので、その埋め合わせが完了すれば清浄無垢な仏の心を得ると心得ておく。何事があっても、平静な心でこれらの苦難を受けて、現実的な対処をするべきである。
ゆえにいかなる場合でも、ただ一心に観音様(自分の信仰する仏様)の名前や真言を唱えるべきである。
濱地居士自身もお子さんがなくなったり、道場ががけ崩れにあったりと種々の災難にあったが、信仰を一生涯続けられた。
正直、なかなかこういう徹底した境地にはならないし、いざ災難にあうと、信仰がゆるぎ、悩むのはあたりまえである。ある意味普通かもしれない。
現実の苦悩を前世の罪業と一刀両断されても、受け入れられない人もいるだろう。
ただし、濱地居士は
それらの苦しみから、解脱しようとか解脱しまいとか心にかけるのではなく、何事があっても一心に唱えることが大事だと説いている。
ここに奥義がある。