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信仰と災い その1

濱地天松居士の金剛経要義(中央仏教社刊、大正13年8月1日発行)にある、金剛経「能浄業障分第十六」の解説を、やや現代文に改めました。( 文責大森)

このなかで「金剛経」の部分を「各自の信仰」「施餓鬼」「修行」などと改めて読むと我が事としてとらえることができます。

 

ただし、これは濱地居士が説く金剛経の視点ですので、納得いかないという人もいるのは当然です。私はピンときたので、信仰者のとる一つの態度として、ご紹介します。それをどう受けとめるかは各自におまかせします。(信仰して悪いことが起こるのはバチや障りではないという点も大事)

 

もう一つ大事なのはこれを他者にあてはめないこと。あくまでも自分自身の精神修養の糧です。

 

信仰生活を続けても娑婆世界にいると思いがけないマイナスなことはおこりますね。

私もなんども体験しています。それでも信仰は続けてきました。おかげで、そのマイナスが何らかの形でプラスになる妙味を数多く体験しました。マイナスなことが起こってる時は私でも嫌です。しかし、それに耐え、それを乗り越えた時、いろんな意味で良い方向に変化しているので、自分の悪業が浄化されたんだと感じています。

 

そんなことが起こるなら信仰はやめてしまおうと思うかもしれませんが、それは間違いです。どのみち自分の負債みたいなものですから、それはいずれ払わなければならない時が来るのです。これからの濱地居士のお話は、たとえれば供養や修行によって大きな負債が整理され軽くなっていくということなのです。(注、信仰により必ず災いが起きるわけではない。順風満帆なかたもいる)

 

 

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さてこのところには業障、すなわち色々な悪業の障りを浄めるということが説いています。

すなわち金剛経を受持読誦していると、業障があれば、その業障はこの金剛経の功徳によって消滅するというのです。

 

さて前章においては、金剛経に偉大なる功徳があることを説いてきました。(大森注、この前章は『持経功徳分第十五』で金剛経を受持する功徳が説かれている)だから経文を常に受持し読誦していたなら、実に偉大な利益と功徳を現世においても得るのだと思うのですが、また意外にそうではないことがあります。

 

それは、はなはだ怪しからんと思うでしょう。一体それはどういうわけかと言いますと、この金剛経を読誦して、人から軽賤せられる、すなわち人から軽んじられたり、いやしめらるようなことがあります。またこのことには、現在災難にあったり、不幸にあったり、人から残酷な扱いを受けることも含まれています。

 

さあ、こうなると普通の人は迷います。

これほど熱心にこのお経を読誦しているのに、こんな災難にあい、悲しい思いをしなければならないというのは、まったく世には神も仏もないものかと怨むようになります。

つづく

 


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鴻盟社版 金剛経より

http://komeisya.co.jp/

こちらのお経本は読みやすい。

 

関連リンク

 

oomorigijyou.hatenablog.com