施餓鬼供養を知ったのは、高校生くらいの時。浅草寺の貫主であった清水谷恭順大僧正の文章をよんでから。
大僧正は十代で四度加行(密教行者の基本的な修行)を修してから、毎日施餓鬼(三供印明と偈文の略作法のようだ)を怠らなかったとある。同文に、密教大辞典などを引いて、勝手に印を結んではいけないとあった。
そんなに功徳があるのならと、まだ出家得度前だったので、知り合いの真言の僧侶に施餓鬼を依頼していた。
しかし、あまりその僧侶は施餓鬼を重要だと思っていないようだった…
いつかは自分で施餓鬼を修したいと念じていた。
しかし、「念ずれば花ひらく」の通り、その日はやってきた。
まさにお大師様のお導きで、自分自身も得度して四度加行を受けるにあたり、行中に施餓鬼作法をすることが言い渡された。
そのとき、大阿闍梨から一般的な略施餓鬼(通称 略施)か、略さない浄厳大和尚が編じた次第で拝むかと問われ、略さない作法の伝授をお願いした。
(施餓鬼の儀軌には、略して不如法だと、供養が遍く餓鬼にいきわたらないと注意している)
それから、施餓鬼はできるだけ欠かさずに拝んでいる。おかげでずいぶんと助けていただいた。(本来、真言行者は施餓鬼を毎日修する)
功徳の「功」とは積み重ねというのは本当で、拝み続けてやっとその有り難さが感じられる。
私は拝みはじめて30年たってから、はじめて施主様から依頼される施餓鬼供養をお受けするようになった。(それまでは私がその器でなかったからだ)
そして、施主から様々な感想をいただき、その一部をブログでもご紹介しているが(実はまだまだたくさん寄せられている。プライベートに踏み込んだ内容が多いためご紹介を控えている)それを拝読して、清水谷大僧正の説かれる通り、この法の尊いこと、そして続けることの大切さを改めて実感している。