金剛経や法華経を翻訳した鳩摩羅什(くまらじゅう)は、権力者のせいで、図らずも戒を破りと持つことができなかった。
しかし、常に
「わが身は汚泥の如し、法は蓮華の如し、汚泥の穢れをもって、蓮華を捨てることなかれ」
と説いたと伝えられている。
私たちには、さまざまな要因(不可抗力によることも)で、罪悪感が生まれることがあり、それがもとで自分自身が汚いと感じることがある(実は本来は空なので、そう思っているだけなのだが)
だからといって、仏法を捨ててはならない。
汚いと感じているその身、そのままを仏さまにお任せする。預ける。
仏法の偉大なるのは、その汚泥を養分として、清浄なる華を咲かすからである。