施餓鬼供養は、私たちが罪業を滅し、物心両面での利益を得る功徳があります。
しかし、その背後には餓鬼の存在が欠かせません。餓鬼がいないと施餓鬼は修せません。
餓鬼は、生前の貪欲や悪業の結果として生じた存在であり、尽きることのない飢えと渇きに苦しんでいます。
大事なのは、この餓鬼たちがあってこそ、私たちが功徳を積む機会があるのです。
いわば彼らは、私たちの苦しみを代わりに背負う「代受苦菩薩」とも言える存在なのです。
この観点は、「煩悩即菩提」という密教の深遠な教えを体現しています。つまり、煩悩や苦しみ、悪業の中にも菩提(悟り)への道が秘められているのです。
施餓鬼供養を通じて、餓鬼たちと私たちは共に救済されます。この行いは大日如来の自然の所作とされ、密教修行者が日々の作法として施餓鬼を欠かさず行う所以です。
そこに不可欠なのは、慈悲と布施のこころです。
例えば、浅草寺の故清水谷恭順大僧正は、修行時代から晩年に至るまで施餓鬼を続けられました。旅行中でさえも列車の窓から施餓鬼作法を修されたそうです。
その信念と餓鬼への慈悲が生涯の精進を支えたのでしょう。
施餓鬼供養の具体的な利益には、息災延命(災厄を除き寿命を延ばす)、滅罪生善(罪業を消し功徳を積む)、追善供養(亡者の供養)などがあります。また、困難な状況に直面した際にもその功徳が働くとされます。
私自身、母が原因不明で食事がほとんどできなくなった際に施餓鬼供養を行い、奇跡的に回復した経験があります。いまも90歳を越えて元気です。
もし寿命がすでに尽きてしまっている場合は、苦しまれずに、安らかに往生されます。実際、複数経験しております。