「信じられたら、さぞ幸福だろうなあ」
信仰のない人々のなかには時々こういうことを言う人がある。
そういう人たちは、しかし、一方では自分が信仰をしないことがひそかに自慢なのである。そういう人たちは大方は当世風のインテリであるから、また一方では信仰は迷信だという腹があるのかもわからない。
そういう人たちは、若くて幸福でその日その日の生活に滞りがなく実人生に未だ疎いようである。
「生」がたき人生に未だ出会ったことがないのである。我が生涯のわびしさと貧しさと愚かさとがいまだその身にしみていないのである。
だから信仰問題を他人事のように甘く取り扱う。
信仰は確かに幸福である。それは人生の底から生まれて、また人をその底に導くものだ。それは深い意義における「生」である。であればこそ、それは幸福なのである。
そこでは世の苦しみは楽しみに、悲しみは喜びに、弱さは強さに、愚かさは賢さに変わる。
こういう豊かな人生が「信仰」である。これが仏様と共に生きるということである。
この世の中複雑で、こと多くてなかなか住みにくい。体力が弱く、知恵も足りない私たちは何時どういう難儀に出会うかもしれない。せんさくも尽きて、へたばり込むような羽目になるであろう。
その時、自分も知らなかった自分の弱さが無残にも暴露されるのだ。
「あぁ、我に全知全能の力ありせば‼」
そういう深い溜め息が、その時、我にもなく漏らされる。
いわゆる全知全能というものは確かにどこかにあるに違いない。事があれば理がある。理は自ずから手立てを含むはず。
ただ我々が、その理に暗く、したがってその手立てを見出し得ないまでである。
この理に明るくて、それに基づく手立てを知り尽くしたもうのは仏様である。
仏様は功徳の源である。その仏様の威神の力のお加持によって、私たちは智慧と力とを得て、同じく功徳を積むことができる。
だから私たちの絶望と暗闇とは、やがてそのまま希望と光明への門である。
そしてその門の扉を開くものは信心である。
私たちは行き詰った時はその扉にひざまづいて信心を凝らすほかはない。
龍樹菩薩が南インドの鉄塔を開かれたのが信心なら、青年時代のお大師様が大日経を感得なされたのもこの信仰の力であった。
教えの道でも生業の道でも秘訣に変わりはない。
危機を乗り越えて、功徳に進むのは信仰の力によるのである。
この信仰の功徳を一つ、二つと重ねて行けばもう心のゆるぐことはない。
こういう人々にとっては信仰は呼吸や、食物のようなものである。
それによってその人の生くる力は高めえらるる。
そして困難を乗り越えるごとに、信仰はいよいよ固くなる。
信仰から信仰に進むのである。
かくて信仰はついにお任せとなる。ただ一筋に仏の大慈悲に生きる。
私はこういう暖かい大師のお守りを度々経験した。
慈愛の御手は強ければ
任せまつりておろがみて
何かうれえむ何時にても
望みむなしく絶ゆるとも
現代語訳
慈しみ深いお大師様の御手は力強いのだから、
すべてをお任せして手を合わせれば、
いついかなる時も、何を悩むことがあろうか。
たとえ願いがむなしく絶えてしまったとしても。
つづく
本文『神代峻通講話集』 神代峻通講話集刊行会刊(高野山出版社内) 昭和35年8月10日発行より転載
