世の中にはお大師様に頼らなくても自分の力で立派にやっていけると信じている人が多い。
が、信者から見るとそれがすなわちお大師様のおかげなのである。
お大師様のお世話にならぬと自惚れられるほど、お大師様のおかげになっているのである。
だからもしそういう人が信心をしたらもっともっと幸福になり、もっともっと良い働きができるであろうと思う。私たちはそういうように自惚れている人々を見ると、なんだか空恐ろしいようなまた気の毒なような気になるのである。
ところがまた一方には、神も仏もあるものかと言って、人を恨み、身の不運をかこって、不幸から不幸へと堕ちていく人々もある。
信者から見ると、そういう人はせっかくお大師様の温かいお慈悲に逢うべきよい機会に巡り合いながら、その機会を取り逃がしているのだとしか思われない。
そういう人こそ何にも勝る信仰の喜びを知ることもできる人なのである。
だからこれらの2種類の人は、お大師様のご慈悲の中におってそのご慈悲を知らず、お大師様のお恵みの中におってそのお恵みを覚らないという点では同じである。
信仰はこの世の幸いをより幸いにし、この世の不幸を幸いにする。
それは信仰はそれ自身何ものにも増して幸いなものであるからである
つづく
本文『神代峻通講話集』神代峻通講話集刊行会刊(高野山出版社内) 昭和35年8月10日発行より転載

高野山奥之院 一ノ橋