信仰がなぜそのように幸いであるかというと、自分がお大師様の御手の中に守られているということが分かるからである。
「守られる結果がありがたい」だけではないのである。
守られるということがありがたいのである。
慈悲は水のようなものだというが、まことに慈悲は水が草木を生きかえらせるように弱った人に元気をつけるものである。
その慈悲をしばしば感ずれば、いつの間にか私たちの心の慈悲が開けるのである。
かたくなな私たちの心も柔らかになる。あわれみ深くなる。少しでも人の慰めとなり人の助けとなりたいという気持ちになる。
おぼつかないながらもお大師様のお心に近づくのである。
つづく
本文『神代峻通講話集』神代峻通講話集刊行会刊(高野山出版社内) 昭和35年8月10日発行より転載

高野山奥之院 御廟の橋