大森義成 滅罪生善道場 密教 善龍庵

懺悔 供養 祝福 報恩 敬愛 (c)善龍庵 大森義成 禁無断転載

信仰の醍醐味

先日ある行者から、「◎◎の法」を伝授してほしいと連絡があった。

どうも自分の拝んでいる修法に自信がないように感じたので、伝授はお断りして、今拝んでいる修法を深めていくように指導した。

 

蓮体和尚の『宝篋印陀羅尼経和解秘略釈下』には、真言陀羅尼を唱えても効験が現れない理由をいくつか示す。その一つに、あれこれと移り気であることが説かれている。

 

まずは法華経の高原穿鑿(こうげんせんじゃく・こうげんせんしゃく)の譬えをひいている。

この譬えは、高原で井戸を掘っても水を得ることは容易でない。しかし、辛抱強く一つのところを掘り進めていると、乾いた土が泥土にかわり、やがて水が出て来る。というものである。

 

これを踏まえて、

のどが渇いたものが(いわばご利益や功徳を欲しいものが)前述の譬えの意味がわからず、ちょっと井戸を掘って水がでないと、すぐに場所を変えたりする。また、ある程度掘り進めて石や岩が出てくる(信仰していても、悩み事がおきる譬え)と、また場所を変えて掘るが中途半端なうちに退屈して、結局は牛が通った跡にたまった目先の泥水を飲んで渇きをいやそうとするのだと。

 

本当は初めに掘ったところを辛抱強く掘り進めれば、清潔な水を得て、どれほど飲んでも尽きないものなのだが。。。と教えている。

(ここで誤解してほしくないのは、狂信的になれ、と言ってるのではない)

 

実際、信仰をつづけるのは難しい。

一時は熱心のようにみえても、思ったようにいかないとふらふらと他所にいく方もいる。まあ心情的に無理もないことだと思うが、蓮体和尚の言う通り、結局はその繰り返しとなる。。。

 

たとえ迷いながらでも、その人にご縁のあった信仰を続けてこそ、ついにその醍醐味を味わえるのである。

 

 

蓮体和尚編『宝篋印陀羅尼経和解秘略釈下』善龍庵蔵